カラスの独り言

信心からの誘い

あなたが、あなたになってくれと言う、仏の命からの願いに目覚めてくれという願いがかかった私の人生だった。
今ここにいる私の遺伝子の過去歴には様々な人と、それを生かした命たちがいたと思う。つらい思い出、死にたい、天に上るほどの喜び、世界的に有名になったこと、時にはホームレスにもなったこともあったのだろう。不治の病で死んだこともあったのだろう。そんな記憶を持った私が今ここにそれらの記憶を背負って生きているのだろう。ひょっとしたら、全人類とすべての命の歴史を背負った最前線でいまここに生きている私なのかもしれない。
私が深く思い出せば、きっとそれらの全てが思い出せるのだろう。私一人が私一人の命を生きているのではなくて、本当に生きていてよかった、そして、生まれて来たことの意味は今までの人や様々な命の本当の願いをかなえるための、それらの命も本当に救うという願いがかかった私だったのだと思うのです。それらの命の願いに気が付くために与えられた人生だと思うのです。
それらの願いが、一つになった南無阿弥陀仏によって愛され許され敬せられているのだと気が付く人生がいま与えられていたという事なのだと思うのです。それが、信心の世界からの誘いだったのかもしれません。

スポーツ選手の言葉

スポーツ選手だから宗教的信念、信心獲得した親鸞とは違う精神世界に生きている人だとは限らない。魚屋・八百屋、コンビニ、ス―パ―の人達だって政治家だって、どんな分野の人でも、その仕事を一生懸命していたら、ふとそんな仏の信念、世界観を貰っていたって不思議じゃないと思います。
仕事でもスポーツでも厳しい自己鍛錬は僧侶以上の世間虚仮の世界を味わっているに違いない。その中からスポーツの神様仏様が生まれたって不思議じゃないのだろう。
同じ人間の精神構造を持っているのだから。ただの利益追求だけではない。顧客ニーズと言う戦略は当然自己啓発にもなるのでしょう。もし、そんな世界でふと、そんな宗教的核心を得ていたら仏教の言葉に汚れていない、天然自然の仏の言葉になってその人の言葉になって出ているに違いない。
スポーツの神や仏と直接対話して勝ち取った言葉は自分の言葉になって、仏の言葉となって、世間の言葉に染まらぬ自然にその身から出てくる言葉になって、でてくるに違いない。私はそれを信じて、スポーツ選手や今どんな仕事をしている人からでも、多くの人の言葉から、そこにアミダ様からの言葉を感じとっていきたいのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

信じるものは救われる

「信じるものは救われる」これはアミダ様の教えによって救われた人の言葉でもあります。この言葉の主人公は私が今のままで仏を信じてゆく事になっていますが、ですが、この言葉になってまで私を救ってくれた生きた仏様と同ことです。つまり、仏に信じられていたことを知って初めて人間は本当に仏を信じることが出来ます。仏教では理性と信仰は矛盾しませんが、信じると言う私の真の主体であるアミダ様を生きている時に初めて与えられ、受け止めた時に純粋に仏を信じることが出来きるのです。はじめて仏と言う真の主体を抱えながら自らの意思として信じてゆく身が与えられてくること、それが仏を本当に信じるということなのだと思うのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

永遠の17才

 最近、年を聞かれる年になった。「十七歳」と答えたら「永遠の十七歳ですか」と皮肉られた。老齢になって体も心も若々しくていいのだろうか。これではせっかく年を取った甲斐がない。17歳の時にしか感じられない永遠に通ずる道がその時与えられているのだと思う。     だから、永遠の世界を17歳で味わっていれば永遠+17歳でほぼ永遠年齢でいいではないか。たとえそれが48歳であっても、17歳は永遠の世界に溶け込んでしまうのだ。だから人間には年があっても無いのと同じなのだ。歳は人と比較して楽しむ娯楽の一種にすぎないのだ。歳はその人が無限の世界を確保しているか否かのリトマス試験紙の意味しか持たないのだ。だから私はやはり「永遠の50歳」でよかったのだ。これを年の功より亀の劫と言いたい。

真理を頂く

 真理に問うて自己を学ぶことが学問だとすれば、真理を個人が発見したとするならば個人の真理となり、真理を自我意識の中に取り込まれ得るものだとするようになれば、やがてその人の学問も真理の小さな一部となり、やがてその真理も狭隘な死せる真理と変わり果て干乾びてしまうのである。
 もともと真理とは生きて全体に働くダイナミックなものであり、古代から真理に生きた賢人たちは常にその前に頭を垂れ真理と共に生きて来たのである。だから、捕まえた真理にその視点がないといわゆる学問に振り回されて真理から食い殺されるようになる。
 だから学問には真理を求めることはあっても、それを政治や会派や仲間内の物には最初からはいらない性質のものなのである。このように述べる人は学問の根本から逸脱していることを自ら知るべき千載一遇のチャンスに遭遇していると認識すべきだと思うのです。
これが、世にいう学問が人を馬鹿にして、ついに世間通途の常識的なことさえ忘れてしまう人間を生み出していくもとになるらしいのである。
 病が高じれば自身が親であることを忘れ、社会人であることを忘れ、日本人であることさえ忘れ。ついには人間であることさえ忘れての無道徳、傍若無人に至るのである。次第に宗教的な意味での人間としての規範さえも喪失してゆくようになる。
 学問をすれば馬鹿になるとはこのことだが、学問に真摯な人は常に常識的な人であることは論を待たない。このことは平安の御代でも令和の御代でも同じ事なのではないのかと思うのです。
なんまんだぶつ
なんまんだ

仏法魂

「命終その期ちかづきて、本師源空のたまわく、往生みたびになりぬるに、このたびことにとげやす」(高僧和讃)
 変わらぬ仏法魂があるのだとすれば、この言葉は宗教的な意味で真実であるとしなければならない。ベルグソンによれば精神は空間を占めずに物的に関係しながらそれを超えて存在するというのであれば精神感応、テレパシ―。一念岩をも通す、と言う事も普遍的な真実なのである。迷いを超えた精神感応の記憶さえ我々に与えられているのである。
 ことに、アミダの一念本願が現代人にも通じているのであれば、この法然聖人の言葉も真実であると謙虚に受け止めなければならないと思うのです。
なんまんだぶつ
なんまんだ
 真理に問うて自己を学ぶことが学問だとすれば、真理を個人が発見したものとするならば個人の真理となり、真理を自我意識の中に取り込まれ得るものだとすれば、やがてその人の学問も真理の小さな一部となり、やがてその真理も狭隘な死せる真理と変わり果て干乾びてしまうのである。
 もともと真理とは生きて全体に働くダイナミックなものであり、古代から真理に生きた賢人たちは常にその前に頭を垂れ真理と共に生きて来た。だから、捕まえた真理にはその視点がないと、いわゆる学問に振り回されて真理から食い殺されるようになる。
 だから学問には真理を求めることはあっても、それを政治や会派や仲間内の物には最初から入いらない性質のものなのである。そのように述べる人は学問の根本から逸脱していることを自らしるべき千載一遇のチャンスに遭遇していると認識すべきだと思うのです。
 これが、世にいう学問が人を馬鹿にして、ついに世間通途の常識的なことさえ忘れてしまう人間を生み出していくもとになるらしいのである。
 病が高じれば自身が親であることを忘れ、社会人であることを忘れ、日本人であることさえ忘れ。ついには人間であることさえ忘れての無道徳傍若無人に至るのである。やがて道徳規範も次第に忘れてゆくようになる。
 学問をすればばかになるとはこのことだが、学問に真摯な人は常に常識的な人であることは論を待たない。このことは平安の御代でも令和の御代でも同じ事なのである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

真理に聞く

 真理に問うて自己を学ぶことが学問だとすれば、真理を個人が発見したものとするならば個人の真理となり、真理を自我意識の中に取り込まれ得るものだとすれば、やがてその人の学問も真理の小さな一部となり、やがてその真理も狭隘な死せる真理と変わり果て干乾びてしまうのである。
 もともと真理とは生きて全体に働くダイナミックなものであり、古代から真理に生きた賢人たちは常にその前に頭を垂れ真理と共に生きて来た。だから、捕まえた真理にはその視点がないと、いわゆる学問に振り回されて真理から食い殺されるようになる。
 だから学問には真理を求めることはあっても、それを政治や会派や仲間内の物には最初から入いらない性質のものなのである。そのように述べる人は学問の根本から逸脱していることを自らしるべき千載一遇のチャンスに遭遇していると認識すべきだと思うのです。
 これが、世にいう学問が人を馬鹿にして、ついに世間通途の常識的なことさえ忘れてしまう人間を生み出していくもとになるらしいのである。
 病が高じれば自身が親であることを忘れ、社会人であることを忘れ、日本人であることさえ忘れ。ついには人間であることさえ忘れての無道徳傍若無人に至るのである。やがて道徳規範も次第に忘れてゆくようになる。
 学問をすればばかになるとはこのことだが、学問に真摯な人は常に常識的な人であることは論を待たない。このことは平安の御代でも令和の御代でも同じ事なのである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

変わらぬ心

「命終その期ちかづきて、本師源空のたまわく、往生みたびになりぬるに、このたびことにとげやす」(高僧和讃)
変わらぬ仏法魂があるのだとすれば、この言葉は宗教的な意味で真実であるとしなければならない。ベルグソンによれば精神は空間を占めずに存在するというのであれば精神感応、テレパシ―。一念岩をも通す、と言う事も普遍的な真実なのである。迷いを超えた精神感応の記憶さえ我々に与えられているのである。
ことに、アミダの一念本願が現代人にも通じているのであれば、この法然聖人の言葉も真実であると謙虚に受け止めなければならないと思うのです。
なんまんだぶつ
なんまんだ

心と体

 小林秀雄氏の講演テープからの寡聞だが、ベルグソンによれば人間の体と魂は密接な関係にはあるが、それぞれが独立した存在だという。しかも、心は空間を占めていない存在であるが存在する。しかし、その存在を証明することは証明できないことを証明したそうだ。
 法蔵菩薩は人間を救うには心の垢である本能と煩悩意識の元である無明の闇を本願力で晴らすことにより心の問題は生きている時に解決できるとした。体は心と独立しているので死ねばこの体からみんな解放されてゆくというのであろう。法蔵は自らの修行を通してこれらの問題を解決した。
 人間は死と言う関門を通って真の活動体としての自由意識に帰ることによって純粋な救済意識の南無阿弥陀仏になり法蔵は自ら建てた本願に人間の矛盾した意識の解決方法を託し本願の永遠性を解決した。そして、人間の根本原理を創造し終わったのである。
なんまんだぶつ
なんまんだ
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