カラスの独り言

覚らせないものが仏さま

 人間にはいつ死んでもいいという宗教的な信念を持つことは出来るが、一方、蛆虫になってでも命を長らえたいという煩悩も持っている。だからいくら信心や悟りを得ても飯は食うし糞も出る。そんな姿だけを見れば信心も悟りも糞喰えという事になるのだ。だが、仏のみぞ知る世界で生きることになるのかというとそうでもなく、時々、真顔で真理を語るから凡庸な我々は時々面食らうのである。悟りも信心も所詮は個人的世界のものだが、そんな煩悩や、本能を超えた世界もありますよと言うぐらいで生きて行けばいいのかもしれないと思うようになりました。煩悩を持って完全に覚らないままで生きて行く。完全にこの世では悟らせない煩悩が仏様のままで生きていくのが気楽で、人らしくて悲しくて、やがて嬉しいくらいが丁度いいのかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

変化していくもの

 救われるはずのないものが救われないままに救われることを仏教では不思議と言う。
清浄な世界に行くこと、つまり、この世で仏に成ることが出来るのは、今この身が清浄でなければならない。しかし、どこにもその姿がないのに、救われる姿がどこにもないし、善人や心が100%清浄ならば、そのまま清らかな浄土へ往けると誰でもが思う。 しかし、五濁にまみれた凡夫が、どこにも救われるものを持っていないものが、無明の闇が晴れただけで、煩悩や本能が残ったままで救われるはずはないと誰でもが思う。
 本願が矛盾しているのは、矛盾して生きていることを何とも思わない凡夫を目覚めしめんとの本願の苦渋の決断なのであるから、本願は自然なのに人間の方が不自然に生きているところに原因があるからなのである。この矛盾したままで、浄土の徳をこの身に現在頂けることは、決して特殊で特別な救済ではなかったのではないのかと思うのです。
 歴史的な変遷を経て、過剰に信心が美徳化されて凡夫たちがいつの間にか聖人扱いされたようなところから、仏と言うものの考えもそれに応じて、特殊化されてきたのではなかろうか。
仏像をはじめ仏教美術には傾聴に値するものが幾多もあるが、こと信仰心や、信心といった目に見えない命のはたらきを伝承する場合に、どうしても神聖化や高邁さ、歓喜性や罪悪性さえも美徳化されて今日に至ったのではないのだろうか。
 ブッタも一人の凡夫であり、妙好人であると言った人がいたが、親鸞も親友と言う言葉で、念仏の同行とみていたような節があるので、やはり仏陀を過剰に尊崇するあまり、その真理の単純性、信心の普遍性が、いつの間にか歴史の垢を浴びてしまい、本来の純粋無垢な如来の本願に化粧をしてしまいがちになって来たのではないのかと思うのです。
 教学的なことは不案内ですが、仏と言う一つの心の世界に二つの心を持った人間が帰ってゆくのには、どうしても現世で一度だけ、心が一つになる経験をしておかなければならなかったのかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

宗教味のある豆腐を作る

 琴でも尺八でも芸術一般、科学者の研究でもその中に、ダイナミックな真理の普遍的な同体、今日の私たちにはたらいている作用から生み出されたものでなければ、そのはたらきを現している者でなければ、それに触れる人々の深い宗教意識ともいうべき感性を呼び覚まし導くようなものでなければ、その意味を完全に根本的に失ってゆくのではないのだろうかと思うのです。       
 一言の言葉にでさえブッダはその宗教意識の難しい根源的感性を言語化して涅槃に入るまで、その生涯を尽くしていかれたのだから。 
 つまり、誰でもが持っている宗教味を感じ生み出すことが出来る世界にお互いにいまここに生まれているのですから。だから宗教味のある豆腐だってお念仏しながら作れば作れるのですから。

なんまんだぶつ
なんまんだ

人生のゴール

  
 人生のゴールはどこにあるのか。「死が二人を分かつまで」とあるから二人の死がそうかもしれない。その後は天国での二人の再会があるのだろう。
 また、個人の目的を達成した時と言えばそうかもしれない。仏教では覚者、仏になることが一つのそれである。真宗も後生の一大事と言って人間の三世の苦から抜け出すためには弥陀の本願信心を獲得した時が、三世の苦抜けとするからそこにあるのだろう。
 二つを比べると、この世だけのゴールとこの世と、あの世と、宗教的な意味での心の深まりとしての前世からの課題としてのゴールも含めて二つあるのかもしれない。
 信心でいえば浄土への全段階にしかすぎないので、浄土で完全な仏に成れば無量寿の仏に成るので有限存在からいきなり無限存在の仏になるので信心をゴールとするとは言ったが、本当のゴールはすべての衆生を救済するまでなので、初めの無い、終わりのないゴールへスタートした時。ゴールの無いゴールが無限にスタートしたときがゴールという事になるのであろうか。
 とにかくナンマンダブツが私にとってはスタートがゴールという念仏の有難い教えを知らされているばかりだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

終わり良ければすべてよし

二人の終わりがよい
仕事の終わりがよい
ゲームの終わりがよい
人生の終わりがよい

様々な良い終わりがある
世間での終わりと仏法の終わり
の意味は大いに違う
世間は二つの間がうまく行ったら良しになるが
仏法は個人の余資が全てに綱飼っているから
個人的なものでも醜聞なのだと思うのです

ブッダが35歳で覚ったら個人的には
もうそこでよかったのだろうし
親鸞も29歳で本願に帰したから個人的にはもうそこですべて良しだったのだろう
何才でも仏法の真理の息吹に直接 
出会ったらすべて良しになるんだろうと思う。

今この人生が終わっていいとしたら念仏で終われたら
すべて良しと変換されていくものに出会っていたという事だろう

常に今終わりよければすべて良しと言うものに出会っておくことが
大事なんだと個人的に思います

なんまんだぶつ
なんまんだ

ロボコンが転ぶとき

 ロボコン博士の森政弘先生が「転ばなければ歩けない」と言われた。
煩悩が人間を躓かせる石としたら、逆に普段当然の如く歩いている私達ですが、これまでに何度転んだことかと思います。自転車でも転ぶほどにうまく乗れるようになる。もともと歩めるという事は、何事によらず失敗があってのことなのでしょうか。
 仏道でも煩悩の躓きにあって、それを乗り越えたところに菩提の道を正しく歩めるものとなるのであろう。一生付きまとうつまずきのもとになる煩悩だが、躓いてその存在の限界に気が付くことが出来たら、
 理性の闇ともいわれる人間の煩悩のもとにある無明の闇が躓いて晴れたら、その後は何度転ぼうとも、転ぶ度にその人の人生の大事な失敗ではなくなり、人生の一休みになるんだろう。    菩提への道を歩む一層飛躍するためのエネルギー充填の大事な時期で、この痛い躓きに、休むことに全力を尽くせる時機が与えられたんだと思えるようになるのだと思います。 

人間の魂はいつでも思い出されるところに生きている

 人間の魂が不変だとしたら。何となく死を恐れなくてもいいようになってくる。
だけど、体と心は痛みや苦しみには耐えられない。だから最後の死だけは本能的に苦悶し恐れている。しかし、もし心がこの世で安らかになれるなら逆に生にも何かしら余裕ができてくる。
 やがて、死を友と考えたモ―ツァルトのようになって死を友として恐れなくなっていくのだろうと思います。
 親鸞聖人が長生不死の神方の永遠の真実の本願の不死の法を得たという事は、幸福な不死に生きるということに、清浄な魂になって、これから様々な生をいくら彷徨ったとしても安心な仏の世界に生きていることを知ってゆく自分になってゆくことを知ったのだと思います。必ず死ぬ命の中に変わらぬ仏の真実を知ったなら、それが本当に変わらぬ命の根源の魂で、それと共に今生きていることを知るならば、それは多くの魂が支えていてくれることを知るのでしょう。そんな魂と一緒に何時までも生きること、思い思われるところに生きる意味も生まれてくるのかもしれません。
 なんまんだぶつ
 なんまんだ

天才と凡才

天才は凡才を助けるために生きている。
凡才も仕方ないから一人で生きられない天才を支えてる。
相互扶助でお互いさま。天才の根っこは凡才だ、だから
天才は難しい理論の結論を知ったら凡才にいずれは、いずれは
分かるようにしないと成り立たない。
凡才にいずれ分からないような理論なんか何にもならない結論だ。
だから、天才を育て認める意味が凡才にはあるから、役立たずの天才なんかこの世にいない。天才も凡才もみんな一つの才能から出た芽なのだ。時代が違えば凡才が天才していたかもしれないな。天才も前世ではただの凡才でいたかもしれぬ世の中だ。回りに回る小車。だからこの世に天災も凡才も生きている意味がある。めでたし、めでたし なんまんだ

  なんまんだぶつ
  なんまんだ

分身鬼

 内なる鬼がいる。心のあらゆるところから現れる。様々なきっかけを得で私の心に現れる。私は知らず知らずにそれと鬼を否定し我を必死で肯定し対応す。しかし、否定すればするほど雲霞の如く吾を取りやがて巻き込まれ。やがて、それらが鬼の形相を現して、それと闘いの日々が来、くたびれ果てる。自分の心の中の鬼なのに自分でどうにも始末が付かぬ。気分転換しようとして環境変えても付いてくる。やがて自分の力ではどうしようもなくなって、救う仏の話を聞いてみたならば、それは私の分身で、よくよく見れば、私が敵になった鬼の姿をした己なり。救う仏の話を聞いてそのこと一つに気が付いた。その時同時に鬼が霧が晴れるがごとくに一散にいなくなり、いかな俺でも、俺を俺が殺すわけにもいかず、いや時によっては殺していたぞ。その時は殺さなかったけれど、危うくこちらが殺されそうになったけど。そこに気が付かないとやはり殺っていた。
   なんまんだぶつ
   なんまんだ

―木守―

 柿やリンゴの収穫後に一個を木守として残すのは来年の豊作を願ってのことだという。
蜂や鳥のために残しているという。
禅宗の修行僧が鳥や動物や見えない餓鬼の為に一口ご飯を残すのと少し似ています。
リンゴの木からしたら、リンゴはリンゴの子供でしょう。それを人間が育てたというけど、もともとリンゴはリンゴのものでしょう。リンゴの子供の成長を最後まで見たいのは人でも同じでしょう。リンゴの木は子供のリンゴを大地に産み落とすまでが親の責任なんでしょう。そんなリンゴの親の気持ちを汲んで強欲な人間の一人が申しわけないなの気持ちで、せめて一人だけでも最後まで見守ってやらせたいと思ったのでしょうね。
そんな感謝と懺悔の気持ちが籠った気持ちがあって残したのでしょう。リンゴに生かされているからこその自然な人間の気持ちでしょう。
木守の思想は長い間に人間の方がリンゴの木から教えられた思想でしょう。リンゴの命も人間の命も平等だという考えから出て来た気持ちだと思います。感謝しているのはいつも人間の方だと思います。
柿やリンゴを食べているといつかリンゴや柿の気持ちが分かるらしい、リンゴにも人間と同じ精神が木魂と言う言葉でいまの日本人には伝わっているらしい。
人間はリンゴを育てているんじゃない、リンゴから人間が育てられているんだな。
二人で一緒にあみだ仏に育っているんだな。
 なんまんだぶつ
 なんまんだ
NEW ENTRIES
(untitled)(05.19)
命の根っこ。(11.21)
夢を見る。(11.20)
(untitled)(11.20)
身。(11.19)
日々是念仏。(11.18)
ありのままの意味。(11.18)
ありのままの自分で生きる意味。(11.18)
動物と人間の違い。(11.17)
トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。(11.16)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS