人間の魂はいつでも思い出されるところに生きている

 人間の魂が不変だとしたら。何となく死を恐れなくてもいいようになってくる。
だけど、体と心は痛みや苦しみには耐えられない。だから最後の死だけは本能的に苦悶し恐れている。しかし、もし心がこの世で安らかになれるなら逆に生にも何かしら余裕ができてくる。
 やがて、死を友と考えたモ―ツァルトのようになって死を友として恐れなくなっていくのだろうと思います。
 親鸞聖人が長生不死の神方の永遠の真実の本願の不死の法を得たという事は、幸福な不死に生きるということに、清浄な魂になって、これから様々な生をいくら彷徨ったとしても安心な仏の世界に生きていることを知ってゆく自分になってゆくことを知ったのだと思います。必ず死ぬ命の中に変わらぬ仏の真実を知ったなら、それが本当に変わらぬ命の根源の魂で、それと共に今生きていることを知るならば、それは多くの魂が支えていてくれることを知るのでしょう。そんな魂と一緒に何時までも生きること、思い思われるところに生きる意味も生まれてくるのかもしれません。
 なんまんだぶつ
 なんまんだ

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