念仏マラソン

 信心を獲ると踊躍歓喜することは念仏マラソンで途中給水するようなものだ。ともすれば、その水が甘露水と喜びすぎて給油所に何時までも止まるランナーもいるらしい。そこに留まれば後からくる走者をみてまだ来ないと傲慢になったり嘲ったり、近くまでくれば焦る気持ちが隠せなくなってくる。先に走っている人を見れば自分を卑下したりする喜びの増上慢が待っている。どちらも喜びの慢心の殻の中に留まって先に進めなくなっている自己愛への罰のようなものだ。
 おいしい水の味を覚えたまま急いで自己自身の探求でもある念仏レースに戻って真実信心の謎を一人一人が解明する道を歩まねばならないのでしょう。
 親鸞聖人も蓮師もうれしさを袖に包み頬を赤らめながらも如来の恩徳報恩の為にと念仏レースの意義を教行信証に二回向として顕され、後世の我らの為になるお仕事をされたのである。一人一人の念仏レースを途中で放棄することは恩徳に背くさらなる五逆の重罪にもなりましょう。後世の先人はこれを喜びが怖いと言いました。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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