人類の忘れ物

 
 素朴に思うんだけど、どうしてアミダ様は信心という宝物を険しい洞窟の奧に隠すようなことをしたのだろう。命あるものがみんな生まれた時から信心獲得状態で生まれてきたら、こんな余計な気苦労や修行のようなものや聴聞なんてしなくても済んだはずなのにと思うのです。
 信心が険しい人跡未踏の洞窟の奥のような所にあるから、行ける人には手に入れることが出来るし、行けない人は一生かかっても取りにもいかない、いけないという事が起こるのでしょう。
それを合理的に速やかに取得するための英才教育として、それを、教える人や学ぶ人や、果ては幼稚園から小中一貫の専門学校までできてしまいました。もうそうなると信心獲得が商業化してしまい、仏書も寺も資格を取ったり、継承したりで大変になってしまいました。
 だから、最初から信心が備わって生まれてくれば、宗教なんていらないし、専門学校や仏典などもいらないし、みんな肩ひじを張らなくても、みんな仲良くやって行けたと思うんですよ。
だって、もともと広開浄土門というなら、最初から持っているなら出しておいて生まれてくるように仕掛けておいて欲しかったなあと思います。
 しかし、まあ、こうなったのも、きっと生きることにのみに精を出してきた人類の魂の黒歴史の性ではないかと思います。
その結果、不要不急の長物となったのがこの信心と言う宗教心だったのかもしれません。だから、信心を最近得ることは、今までの人類が獲得してきた強欲な三毒五欲と言われる地獄的な欲望の根源無明の無痴の盲目的な意思と戦って勝ち得たものかもしれません。各自の中にある自分自身のものとなってこびりついている人類の欲業との対決になっていたのでしょう。
だから、最近、信心宗教心を獲得するという事は、剣呑な暗黒の洞窟の中へたった一人で旅する冒険的で奇特な旅路になってきてしまっているから、希望者が激減してきて来たのかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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