カラスの独り言

有るとか無いとか

 有るとか無いとかと思う心が、ありのままでいいという心になるまでには、有りのままでいる仏の救いに与からねばならない。そのためには、かならず宗教心の覚醒がなければならぬ。
 そしたら、ありのままでない私に気が付くときがくる。ありのままにならないままで、ありのまましか生きられない私であると気付かされるのだ。
 だから、ありのままとは、内部で二者択一の選択に迷う道を通ったものが到る世界だが。超えてもなお残る洗濯に迷うという事は、覚悟しなければならない世界でもある。
 しかし、そこは安心できる選択を持った世界でもあるのである。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

知ることと信じること

 脳科学者が宗教心を、無意識の働きを、無我を、阿頼耶識などを説明しても、認識できるものと知っていると言っても、それを信じている事とは別世界。実際に知っていると言っても信じて実際の生活の中で真実の自己の主体になって、言葉にまでなって生きていなければ意味がない。
 言葉はものの本質まで指し示す羅針盤や道案内だ。だけど、いくら立派な山の看板があって、実際に登ってみなければ山頂からの景色は見えないように。本当に宗教の主体のはたらきを心に浴びて日々信じている人の言葉は自身ばかりではなくて、それを聞く人の心の宗教心にまで届いて、きっと、きっと、いつかはその人自身も、その道を歩み出すほどの力を、真の主体を確保するほどの、その純粋なはたらきは与えてくるに違いない。

なんまんだぶつ
なんまんだ

いまここにみんなある

 現在に未来や過去が詰まっているなら、過去46億年の物質非物質が私の身の回りにあった嬉しいことも悲しいことも出会いも別れも、今のこの体に記憶されているのだろう。
 もちろん、宇宙の初めも、その前の宇宙もだ。それを今、上手く思い出せないから科学の力を借りて思い出そうとしているだけだ。分別智よりもみんなが持っている無分別智を働かせれば分かる事なのかもしれないな。
 過去を遡れば、ひょっとしたら宇宙の終わりが宇宙の始まりになっているかもしれないな。多次元宇宙だって同じことだ。始まりがあれば終わりがある。
 生起して死滅する存在に変わりはあるまい。そんな中にポワンとここに生まれてしまったから、この輝かしい一瞬一瞬を栄光に満ちたものにして生きてやはり、満足して納得して充分理解して栄光の死滅を飾り終わりたいものだ。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

本願再興

 すぐ出来上がった作品も尊いが何度も失敗して出来上がった作品も尊い。人生も成功談ばかりでなく、何度も失敗した話も尊い話だ。お念仏でさえアミダ様が何度も思惟錯誤失敗して出来上がったものがお念仏なので、それまでの自力修行の失敗された物語も尊いのである。
 お念仏にアミダの全身全霊が籠っているのであれば、なおさらの事、一端、完成した如くに見える本願念仏でさえ、幾度、本願建立を企て失敗されたことであるのか。それでこそ、生きた本願なのではないのか。
 これから後世の我々が、その意義の再構築を時代と共に現在も再建立され続けて行かなければいけないのではないのかと思う。だからこそ、我々は今日その本願再興の御手助けをせねばならないのだと思うのであります。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

生かされて死んで行く

 生かされて生きる。とは、生かされながら死にながら生きているという意味が半分入っている。死と滅のマイナスを省略してはいけません。生と死はいつも兄弟はなれない。生があれば死があるように、生起と死滅は同時進行で動いている。生かされてとは正確には生かされて死なされて、滅されていくので、生きている私の存在は、生と死と言う滅を含んだ、肉体と魂と、見えるものや見えないものもみんな生滅変化しながら生の一面があり、死と言う滅の面も持っているという事なのだ。
 だから、生かされて生きるとは、死滅から生起がはじまり、生起から死滅が同時進行で起こっているという事だ。これが全ての事象で怒っている。間断なく世界中で起こっている。私の体の中でも起こっている。毎日の体の変化も、大きな変化もこの正起と死滅の繰り返しの中での出来事だ。その途中の姿でみんな今ここに生きい行かされていると言っているのに違いない。だから、生のみが吾らにあらずと清沢満之が言ったのだ。
 生死生滅を見てゆく心や目を阿弥陀仏は真人として、人間の宗教心の生きたはたらきとして慈悲と勝ち得からの物の味方、一つの自信の正しい見方が信念のある生き方として与えたのだろう。これが人間の本来持っている真実を知見が出来る仏眼、無分別智、宗教心と言われるものの働きなのである。ここに、心が座れば本当の安楽が自身に与えられ諦らかな生き方が誰にでも得られるようになるのである。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

即とは繋がりながら離れている存在同士の関係

 煩悩を持ったままで救われるとは信心宗教心に目覚め、その用を主体として生きて行くという事だ。宗教心信心は一切の汚れ煩悩からくる正しい内と外に対する判断を狂わせる事態から、それらを正しく判断させる清浄安楽仏国土だが煩悩汚辱国との二つの世界を持ったままで救われる絶対に壊されない浄土安楽国が永遠普遍的に存在する存在だから煩悩国からの侵入に一切負けないのだ。
 一見矛盾しているようだが、これが人間の真実の救いになるのだ。生きるという事は煩悩国を100%捨て去ることは即死につながるので、この救いは人為的な死であり人為的な生となるので平和で静寂な救いとはなり得ないのである。
 煩悩を完全に否定することは絶対的な隔たりを持ちながら二つの間には宗教的な有機性の関係が保たれている限り、煩悩も悟りも否定することになるのだろう。煩悩国を持って生きるという事は、如何に真実に対して謙虚な態度をどこまで示せるかの人間の最後の矜持になるのではないのかと思うのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

真理力

 真実を知らず真実に逆らって矛盾を抱えたまま死んでゆくしかない人間存在。矛盾したままでしか生きられない人間存在。その人間を真実に目覚めさせるためにアミダは人間にはない、絶対矛盾を自らの主体として、人間を自己解体しながら自らも救い、さらに本願を自己増殖させてゆく事ができ、さらに、それを自己拡大のエネルギーとさえできるアミダの力によってのみ、その矛盾力によって人間が真理と乖離しながら求め続けている人間を精神統合させていくことが出来るのである。             
 矛盾の錠をこじ開けることに成功することが出来る仏の力によって人間はついに、自己自身の内部のアミダの真理力によって真理の自覚にたどり着くことが出来るようにその本願力が内部留保されているのである。 

なんまんだぶつ
なんまんだ

次第相承

法蔵の本願の中に成仏の為に18願の方法と第一願の目的が因果同時に書かれてある。
 本願の順番すれば、第1願から第18願となるのだろうが、アミダが凡夫をすぐに救おうとされる本願の本意からすれば階段を上がるように本願を歩めとは言っていないのだろう。すべて因果同時に書かれてあるのである。だから本願は念仏即往生成仏である。
 しかし次第相承で書かないと理解できない故に凡夫の成仏はこの身に因あり果あり果の中にすでに因有りなのである。花は咲かねど必ず咲く花の種なのである。
 だから念仏一つで往生成仏が果として因に与えられてあるから、これほどの具体的で簡便な仏心大慈悲は無いのである。いよいよ、この大慈悲心を学ばねばならぬのである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

本願は一つでいい

 曽我量深は「本願は第一願が大切だ」とどこかでおっしゃっていたような気がする。
では第十八願はどうなるのだと思ったが、第一願は地獄餓鬼畜生で貪欲瞋恚愚痴であり本願の最終目標だ。第十八願はその方法が書いてあり、19願はそこへの心の第一の道程段階で20願が最終関門で十八願が純粋救済だ。つまり、十八願に包まれて19.20願があり、その中で吾らは生前に心が救われ、やがて成仏するという事だ。すべての有情を救うという事は誰でもが言うのだろうが、世界人類が幸福になる前に個人の幸福はないという前にまず個人が幸福にならないと思った。個人の幸福の中に世界があり、世界の中に個人がいるのだから。その手段が住んでアミダさんが作った人類共通の救いとして。そして、助かってみたら幸福になってみたら、これは本物だと思ってたのに、みんなに勧めてみた阿弥陀の本願はすぐに全員救われるというわけにはいかないようだが、その手段がみんな持っているという事を知っただけで人類が幸福になれることを今確信することが出来るのだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

統一神

 ユーチューブ。インスタグラム。ツイッター。SNSを見たり聞いたりしている人は自分の視点で世界中を見ている気持ちになるんだろうな。
 目的も様々なんだろうし、そこで生きている人もいる。世界中のそれを見聞きしているのは、まるで神の視点を持ったような気持になるんだろうな。
 いつの間にか、それに心を奪われてしまう時もあるだろう。そんな神の世界がもっと欲しくなり世界に通ずる自分の存在を確かめたくなって、例えば、小さなスマホもいつのまにか手ばなせなくなってしまうのだろう。
 だけど、世界を駆け巡らせるスマホの製作者もいることで、それを作った人達が、スマホの小さな神々を支配して統一神の視点を楽しんでいるうちに、やがて小さな神の視点が大きな統一神に支配され、彼らの思うままの奴隷にされながら、やがて小さな神の視点もおおきな統一神の意志意欲に反映されて相互に歴史的な一つの大きな神の歴史神話を作って行くのかもしれないな。

 なんまんだぶつ
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