即とは繋がりながら離れている存在同士の関係

 煩悩を持ったままで救われるとは信心宗教心に目覚め、その用を主体として生きて行くという事だ。宗教心信心は一切の汚れ煩悩からくる正しい内と外に対する判断を狂わせる事態から、それらを正しく判断させる清浄安楽仏国土だが煩悩汚辱国との二つの世界を持ったままで救われる絶対に壊されない浄土安楽国が永遠普遍的に存在する存在だから煩悩国からの侵入に一切負けないのだ。
 一見矛盾しているようだが、これが人間の真実の救いになるのだ。生きるという事は煩悩国を100%捨て去ることは即死につながるので、この救いは人為的な死であり人為的な生となるので平和で静寂な救いとはなり得ないのである。
 煩悩を完全に否定することは絶対的な隔たりを持ちながら二つの間には宗教的な有機性の関係が保たれている限り、煩悩も悟りも否定することになるのだろう。煩悩国を持って生きるという事は、如何に真実に対して謙虚な態度をどこまで示せるかの人間の最後の矜持になるのではないのかと思うのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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