カラスの独り言

柳に念仏

何事にも感謝して生きることは何より自分の心と体にいいことだ。何事も不平不満は体調を崩すことばかり。二つのもとにある心、いわゆる自然体で何事も受け止めて行ける心構えが大切だ。一つは変わらぬ信念をもっていることだ。
それは自己の勝手な信念などということだけではなくて、永遠に変わらぬ仏の信念をもらってというほどのことである。
さすれば仏の信念ならば、わが信念として、もっともふさわしいものになるからだ。これによって、我が身と心はさらに強固となり厳しい人生を柳の如く強い風に飛ばされず、曲がらずしなやかに生きて行けるようになるのかもしれません。
しかる後、世間や仏に対し感謝しても不平を持っても、すぐ動かされながらであれば世間に通じるこの言葉「感謝は極楽、不平は地獄」と言う言葉がすこしく理解ができるようになるのかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

お金をくれないあみだ様

 阿弥陀様はお金をくれないが、お金に関しての量より質に新しい意味をくれている。一円よりも100円の方が比べりゃ有難いと思うけど、一円でもアミダさんから貰ったものだと思えば意味のあるお金になるから。これを仏にかえす、仏法の為に使おうかという意味の変換が心に起こるようになると、量にはあまりこだわることが無くなってくる。人間本来無一文。極貧でも絶対的な満足のいく生活がお金以外の所も質的変換が起こってくるように。相対的な価値から絶対的な価値観への転換が、私の心の中から起こってくるようだ。みんな、みんな仏さまからのご縁なんだけど、この心が許さない地獄をいつも作ってくるのだ。なんまんだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

嫌だろうけど帰って来いよおっかさん

 鮭が母川に帰ってくるように、人も年老いると古里を懐かしむようになるらしい。お釈迦様の最後の遊行も故郷へ向かう旅だった。親鸞様も晩年は故郷近くの都住まい。人間の心の故郷はいくら浄土でも「死の帰するところ、生の依るところ」と金子先生が仰っていても、夕日が沈む西を本能は懐かしむように、動物本能で古巣へ心は自然に向かうものなのか。生きることが厳しいほどに親と暮らした故郷がほんのりと懐かしくなるのは本能か煩悩か宗教心か欲生心か分からない。
 そんな心の隙間を埋めるよに、命あるものすべてが生まれ故郷に帰ってゆきやすい方向に、夕日のきれいな方向に。だから、きっと極楽浄土も西方浄土にしてあるに違いない。

なんまんだぶつ
なんまんだ

命のヒエラルキー

 偉い人間が偉くない食べ物を食べている。いや、ライオンは人間を食べ物と思っている。人間が食べ物と思っている食べ物から見れば人間の多くは単なる道具を持っている危険な捕食者だろう。久しく人間はすべての命の支配者として生殺与奪の権利を持っていた。
 しかし、それら多くの食べ物たちは人間の命を長く支え続けて生きていく、従順で最低限の命たちでもあったのです。ライオンは腹八分目を守っている。人間は神の如くに命の頂点に立っているようで、食べられるものから見れば、命のヒエラルキーの頂点に立っているのではなく三角形の底辺に生きている命達に支配されている食べ物なのだろう。だから食べ物たちの方が賢くて、一見食べられ支配されているようで命の平等基準から見ればそっちの方が支配者なのかもしれないな。
 仏の目から見た命の平等性から見れば、人間はもっと食べ物たちの命に謙虚にならないと自分を支えて来てくれていた、命たちの願いに背く今の生き方は、やがて、自らの命の尊厳さえも損なう事になるのだろう。それも自然の摂理だったら従うしかないのだろう。そんな、命の流れの中の私です。

なんまんだぶつ
なんんまだ

宗教心の用き

 「往生は心にあり。成仏は身にあり」「虚無の身、無極の体」。
人間は永遠の仏と共に歩む道が現在に与えられる。
 つまり、生きた仏の身体とは吾らの口から出ているなんまんだぶつだが、我らには父母兄弟親友などの諸仏として、眼に見えない魂の如き存在として普遍的な形を得ていくという事なのであろう。
 それは信心を獲た人には諸仏と阿弥陀仏が目に見えない魂として生きている時に智慧と慈悲の用きをなし、死しては見えない永遠の諸仏の魂として念仏する人の所に生きてくるという事なのだと思うのです。これらがみんなが持っている宗教心のはたらきだと思うのです。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

サンバ

 信心発起する時はいくら産婆役の善知識がいても諸仏の手助けがあれば、いても、いなくても自然のはたらきで生まれてくるものだ。知ったかぶりして下手に手を出してこじらせることの方が逆に苦しみを長引かせるだけ厄介だ。
 自然に任せておけば、よほどのことが無い限り信心の方から勝手に自然に産みの苦しみを伴って生まれてくるようになっている。

なんまんだぶつ
なんまんだ

助かった後にまだ大事な仕事があるやんけ

 
 救われた人々は不思議と、その後に阿弥陀様とはいったい誰だったのかと問い始めているから不思議だな。
 この世の真理で持って仏の真理を尋ねたのだから当然のことかもしれないが、真理を包む仏の大きな真理に入ることが出来たことからその働きをさらに知りたくなるのは当然なのかもしれないな。
 お釈迦様も、みんな一体あなたは何者だったんですかと主体的に訊ねだしているから不思議だなと思う。
 助かる前はすべてあみだ様の構造や、言い伝えられてきたことはすべて知っていたはずなのに,いまさらの感があるのです。
 念仏一つで助かると知っていて助かってから、いまさらの如くに、あなたは一体誰だったんですかと尋ねだす。それが、本当の私だと分かって安心しても一生、あなたは誰なのですかと尋ねてゆく姿は不思議だな。

なんまんだぶつ
なんまんだ

言葉仏

なぜ南無阿弥陀仏なのだろう
 アミダの言葉と心が一つになって我らに仏への自覚を促して無心と涅槃に到らしめんとの言葉仏の真実が私たちを仏の世界に目覚ましむ言葉が、この言葉に留まれば、それでも知性だけは十分に納得するが、もう一つのこの身このままの心全部が得心しないし、目覚めもないし、救われた実感もないまま年枯れる。
 最初から、言葉と心が一つになってアミダ仏が一つにして分けられないものと凡夫に手渡ししていたはずなのに、それを、賢しら凡夫がいらぬ浅智慧分別心を遠慮会釈なく勝手に自分の思慮分別に取り入れようと配慮して、慮って忖度、挙句の果てに一つのケーキ、心と言葉を切り分けたつもりで食べちゃった。
 だから、お腹の中でも二つがバラバラになって智慧と慈悲もばらばらになりました。そんな苦しみの中でそんな余裕の判断できぬ心の病の凡夫が丸ごとひとつ食べて救われた。
 もともと念仏一つ、信心一つがお腹の中で元の姿で生きてはたらき出して、これで少しはまともな人に成る。信心一つにつながってお口から二つが一つになって今日から智慧と慈悲のナンマンダブツとなって堂々とお出ましだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

この世はあみだくじだよおっかさん

 人間の中でも私が一番運がいい男だろう。岩手県でもそうだろうと思ってる。だから私は一番の幸福者だと思ってる。特に籤運がとてもいいと思ってる。ロト6やロト7、サッカーくじで一等を当てたことはないけれど、あみだくじで一等が当たったことが一度ありました。人生で一番大事なお宝あみだくじでアミダさんを当てたことがある。正確に射当てられたことがある。一等はお前だ、と当てられたことがある。一番くじを引き当てた。こんな幸運強運はめったにある事ではありません。
 あなたにも是非、人生たった一度だけ、人生がバラ色に染まるあみだくじを一度引いてはみませんか。アミダさん引いて、アミダさんに当たられてみてみませんか。

なんまんだぶつ
なんまんだ

原点回帰

 食べることは罪作りだけど美味しいな。人の命を奪って楽しいな。人はその昔、楽しい美味いその食事、人生の中で、一日の中でとても、大切にしていたよ。楽しい一家団欒の食事だけれど、その中に命に対する、敬虔な祈りの感情と懺悔の心が籠ってた。
 今は忙しい時代だから、それらを省いて食べることが先になってしまったけれど、いつか、きっと、一人一人が取り戻す。      
 命の願いが人にあるように美味しい者たちにもあったはず。
 命の願いがあったはず。
 今は食べ物以下の餓鬼の世界に落ちているけれど。 ドレスや燕尾服で正装し、ひたすら餓鬼の所業で食べている鬼だけど。    
 服を着た餓鬼だけど。
 いつか、きっと、鏡に写った己の姿を見て、恥じるはず。
 命を罪業の炎で焼いて灰にはすまじ。ナンマンダ

なんまんだぶつ
なんまんだ
NEW ENTRIES
(untitled)(05.19)
命の根っこ。(11.21)
夢を見る。(11.20)
(untitled)(11.20)
身。(11.19)
日々是念仏。(11.18)
ありのままの意味。(11.18)
ありのままの自分で生きる意味。(11.18)
動物と人間の違い。(11.17)
トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。(11.16)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS