空しいままじゃ終われないのが人間のさがなのさ。

 死後に救われる臨終即極楽往生とか、死ぬ間際に救われるという臨終来迎に間に合わない人もいる。

 臨終来迎往生とは死ぬ直前の宗教心の自覚だとすれば、自助努力をしても、それに間に合わないときもあるだろうし、死んでからではそれを自覚できないし意味がない、死ぬ間際にそれが本当に実現出来るとよいのだが、仏任せの来迎もいいけれど、その名のもとに、自ら求道もせずに、普段の生活を続けていては意味がない。

 仏果に至る悟りや信心の宗教心は生きているときに自覚し、それを生きることが目的なのであるから、ことさらそれを期待するぐらいなら、日常で自覚するべきが筋なのだ。

 救われるとは、いつ、どこでどうやって、何のために、どうなれば、それで私がそれから何をすればいいのかを知ることだ。仏教の教えは生きているときだけの救いであり教えなんだから。

 死んでからの自覚は全くあてにはならないからな。死んでからの救いもいいが、その証拠は誰も知らなし確証がどこにもないままだ。その中身を生きているときに知ることがないと根のない空しい人生を過ごすことになると思います。

 たとえ生前無自覚で死後に仏になったとて、救いにくんる阿弥陀仏となったとて、無自性空になるのだから、このいまの私を思い出せないのだろうから、やっぱり今しかそれはない。
なんまんだ。

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