救われてどうするの。

 
 死後に救われるとか、死ぬ間際に救われるという臨終来迎に間に合わない人もいる。

 来迎とは宗教心の自覚だとすれば、自助努力なしに、聞法もしない無力主義で死んでからではそれを自覚できないし意味がない、死ぬ間際にそれが出来るとよいのだが、来迎という名のもとに、自らの求道を否定し、普段の生活の上で宗教心は生きているときに自覚し、それを生きることが目的なのであるから、ことさらそれを期待するぐらいなら、日常で自覚するべきが筋なのだ。

 救われるとは、いつ、どこでどうやって、何のために、どうなれば、それで私がどうなれば、どうなって、それから何をするのがいいのかを知ることだ。

なんまんだ。

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