カラスの独り言

孤立と独立

独立とは自分の我欲からの独立で、一人いては静かと思い、皆と居てはにぎやかだと思う事。弧立とは独裁しようとする心から出るもので一人いて寂しいと思い、皆と居てはうるさいと思う心という。 
 なぜなら独立はいつもアミダといるからであり、弧立は個の中にいながら個人としての閉鎖的なつながりしか持てない自我意識の孤独から抜け出せない存在だから。

ブッダの生誕の意味

 なぜ仏陀はこの世に生まれたのか、その目的はその生誕にすべて表されている。人に生まれた本当の目的とその結果の世界を示されたのだ。それは、七歩目は人間の苦悩の全である六道を超えて悟りという無我意識の縁起の世界観を目的とし、そこに生きよと人間の進むべき道を示されたのである。これでもう十分生きたというために。
 そこには仏の命を共に生きることが苦悩の闇の中ででも可能な真実の人間として生きることができる人間の希望と勇気と愛の世界があるからである。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

一緒だよ

生と死は矛盾概念だ。表裏一体の関係だ。生は死があっての生だ。死は生があって成り立つ概念だ。二つは離れることがない仲のいい友達なのだ。光と闇のようなものだ。闇があって初めて光が生きる。光は闇のなかでなければその新川発揮しない。死もまた生が我が焼けば輝くほど死もその輝きを増すのだ。
 生の先に死があるのでなく、このカラダも一見、生しか見えないようだが、細胞の死というように、その死があってこそこの生が成り立っているのだ。
この生は生と死が互いに変容しているだけなのだ。もともと一つの諸行無常の中のものとして存在していたものなのだ。
 生死を分別する自我意識の苦悩を、もともと一つの概念を真実一如の中での生死であると縁起の法に目覚めて超えてこうとする人間への真理からの命題が「独尊」「生死出ずべき道」「後生の一大事」だったのである。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

たぶんこうかも

 アミダさんは真実の愛と勇気と希望の純粋な活動体である、すべての命の根源を表す象徴的な活動なので、このままでは相対的な命の世界に行けないので、あえて人間の命の限界に合わせて無限の命と智慧の活動を限定して言語化したのである。ここにすでにアミダの悲しみと慈悲と痛みが存在するのである。
 譬喩的に言えば、プロメテウスのように、人間が天上界にあった真理の火を無理に奪い取ってきたのである。その罰が人間の根源的なアミダへの反逆罪として自我意識に深く刻まれ、その苦悩が人間すべてに永遠に刻印されたのである。
 信心はその意味でアミダへの反逆罪の自覚と救済を同時に自覚させられる五逆罪として人間が背負うべき永遠の贖罪となった。
 それはアミダの痛みと悲しみを伴う無限の慈悲と智慧を人間が人生でたった一回、真理体験する機会を信心獲得としてアミダと直接つながることができる機会として与えられたのである。
 アミダからもらった真理の活動の活用は人が生きている限り阿弥陀から許されても、それは人間が生を終えるまでのもので、最後の人間の贖罪の完成はアミダの身元に帰るときまで残されたということになるのである。
 人間の意識と無意識のはたらきが軋轢を伴って統一するとき、人間の心には真理たる無意識が無意識の活動を失わずして意識化されるとき無意識の痛みが初めで人間の自我意識に感じられるのである。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

たぶんそこうかもしれません

 アミダさんは真実の愛と勇気と希望の純粋な活動体である、すべての命の根源を表す象徴的な活動なので、このままでは相対的な命の世界に行けないので、あえて人間の命の限界に合わせて無限の命と智慧の活動を限定して言語化したのである。ここにすでにアミダの悲しみと慈悲と痛みが存在するのである。
譬喩的に言えば、プロメテウスのように、人間が天上界にあった真理の火を無理に奪い取ってきたのである。その罰が人間の根源的なアミダへの反逆罪として自我意識に深く刻まれ、その苦悩が人間すべてに永遠に刻印されたのである。
 信心はその意味でアミダへの反逆罪の自覚と救済を同時に自覚させられる五逆罪として人間が背負うべき永遠の贖罪となった。
 それはアミダの痛みと悲しみを伴う無限の慈悲と智慧を人間が人生でたった一回、真理体験する機会を信心獲得としてアミダと直接つながることができる機会として与えられたのである。
 アミダからもらった真理の活動の活用は人が生きている限り阿弥陀から許されても、それは人間が生を終えるまでのもので、最後の人間の贖罪の完成はアミダの身元に帰るときまで残されたということになるのである。
 人間の意識と無意識のはたらきが軋轢を伴って統一されるとき、人間の心には真理たる無意識が無意識の活動を失わずして意識化されるとき無意識の痛みが初めで人間の自我意識に感じられるのである。

ナンマンダブツ
ナンマンダ

ブッダ三本の木

 無優樹・菩提樹・沙羅双樹はブッダの誕生と悟りと涅槃を象徴している樹だ。人間はこのブッタの樹のように生まれ、悟り、涅槃に成長する人間設計図をブッダからもらったようなものだ。
 限りなき命と光の仏の悟りの種が大きく花を咲かせ、見えない念仏の種になったミダビールスが東に飛んで、私の心に飛び込んで今、念仏の花を咲かせています。その念仏にブッダの三本の樹が生きています。ナンマンダブツナンマンダ仏。
 これが私まで咲くホントの花まつり。ブッダの生誕は昔じゃないよ、いつでもみんなの心に生まれてくるよ、ほんとだよ。
 さあさ、咲かそう念仏の花を、咲かそう、咲かそう念仏の花を、これがホントの花見だ、わっしょい、わっしょいわっしょいしょい。
 ♪〜 咲いた、咲いたブッダの花が、咲いた、咲いた、赤・白・黄色、どの花見てもきれいだな。♪〜

同時成立する僕と仏 

 凡夫と仏は同時に成立する。
「煩悩即菩提」も煩悩が煩悩として仏に承認されてこそ、その立場が凡夫に与えられるのであって、初めから煩悩が私に自覚的にその本質や本来の役目が存在していたのではないのだ。
菩提も菩提の存在が煩悩に自覚されないうちは存在価値がないようなものなのである。相互に自覚し合ってこそ本来成立する両者なのである。

つなぐ

「宗教」とはRELIGION(再び結びつける)という意味という。
親鸞は宗教とは神のような相対的な永遠の契約ではなく、積極的な真実からの人間の主体の変換と、二回向による人格主体の錬磨であり、自我の透明化と清澄化であるというのだ。

目覚めと時間

1.
 宗教心に目覚めて(浄土に往って)、すぐに宗教心(浄土)を抱えて念仏すれば、煩悩を抱えたまま浄土のはたらきを感じながら浄土の生活を送る。この世では私が念仏になるのでなく、浄土を抱えた念仏がわれになるのである。
 死んだらそのまま煩悩が灰身滅智して完全な涅槃にニルバーナになる。そこまで今私が知る必要はない。ナンマンダブツナンマンダ。
2.
 仏性覚醒によって現在に変わらぬ縁起の道理を無我として、永遠の今の時に本当の私の命をアミダとしても五濁の世の懺悔無き身に賜るのだ。
 今の時間を超えた永遠の時間を頂くので、いつでも今しかない今になってゆく道を歩むのだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

空気の信心

 阿弥陀さんからもらった信心がなくても、この世の絶対相対的な価値観に自己満足して死んで行ける。 
 しかし、絶対世界に生きようとして、仏と私を繋ぐ信心を求め始めても、意を決し、努力して信心を求めてもなかなか得られない、しかし、求めなければなお得られない。求められないと知るところまで求めないとさらに得られない。
 信心はまるで空気のようにあるのが当たり前、なければ人でなくなる絶対大事なものなのに、その当たり前が有難くならない私の心が仇になる。
無いようであるものに気がつかさせて頂く有難さ。
 これがなければ生きてはいけぬ。求めなくても、初めからあった有難さ。まるで空気があることの有難さ。この一息がナンマンダ。私とあなたのナンマンダ。私のためのナンマンダ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
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