カラスの独り言
寂しいですか
つらいですか
もうこれ以上ガマンできないですか
だけどね きっとね 
いままでもずっとあなたのそばに
いつもあなたのことを知っているひとがいるんですよ
寝ているときもいつもあなたを後ろから抱きしめている人がいるんですよ
いつもそばにいる、見えないひとはいまあなたと一緒になっている人です
そのひとはあなたの全てのくるしみや楽しかったこともみんな知っています。
「本当に知っているんですか、聞いているんですか?」と尋ねたらきっと答えが返ってきます。
その返事を聞いたら、すこしは、こころが楽になるかもしれません。試してみてください。 
ナンマンダブツ
ナンマンダ

モテ期

 過去に右手を引っ張られ、未来に左手を引っ張られ、キュウキュウしながら念仏に両手が助けられ、いま両手が自由に開いて生きている。ナンマンダブツナンマンダ。 
 ついでに、閻魔様に帰って来いよと右足を引っ張られ、あみだ様にこっちへこいよと左足を引っ張られ、人気最高絶好調。
この世でこんなにモテたことはありません。この世でこのまま立ち往生。この世で往生できれば最高だ。
 この身このまま即身成仏の完成形、生きたままのミイラの完成だ。
 拝観料は十割増しの割高だ。生きながらの立ち往生、私だけがこの世でできる悟りの世界のニルバーナ。
 それにしても痛い苦しい、有難い。現世成仏往生同時成就の最終形、間違いなしのナンマンダブ。ナンマンダブツのナンマンダ。
 過去に右手を引っ張られ、未来に左手を引っ張られ、キュウキュウしながら念仏に両手が助けられ、いま両手が自由に開いて生きている。ナンマンダブツナンマンダ。 
 ついでに、閻魔様に帰って来いよと右足を引っ張られ、あみだ様にこっちへこいよと左足を引っ張られ、人気最高絶好調。
 この世でこんなにモテたことはありません。この世でこのまま立ち往生。この世で往生できれば最高だ。
 この身このまま即身成仏の完成形、生きたままのミイラの完成だ。
 拝観料は十割増しの割高だ。生きながらの立ち往生、私だけがこの世でできる悟りの世界のニルバーナ。
 それにしても痛い苦しい、有難い。現世成仏往生同時成就の最終形、間違いなしのナンマンダブ。
ナンマンダブツのナンマンダ。

20願

法蔵菩薩の第二十願「果遂の誓い」は自力意識を離れられない私をいつまでも真実の念仏世界に帰らせる本願力に任せよということだが。これは、阿弥陀様の私に対する強烈で美しくもある純粋執着である。無我の世界に帰るしかない私を、自我意識にとどまろうとする私を切り離し、真実の自由な世界に帰らせようとする摂取不捨の吸引力の表現である。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

仏のゴールデンルール

 強者適応のゴールデンルールは強者側と思っている人間が考えた自然の原則かもしれないが、仏のゴールデンルールは、強者は多くの弱者の許しに支えられて初めて成り立つゴールデンルールなのだ。多いとか少ないとか、小さいとか大きいとかの比較は心が勝手に妄想しているだけだと思うのだ。
 だから、この持ちつ持たれつの関係には強者も弱者もないのだ。弱者がいると考えている強者には適用されるルールかもしれないが、共に平等に今ここにある仏からもらった自然の命の輝きは等しいのだ。
 例えば、太陽が出ない夜中ではホタルの光の方が太陽より耀いているように。それぞれが、その時、その場所で、そのままの輝きで充分よくて、それだけで、どちらも人間として勝者になっているのだ。
 ここには、それぞれの輝きの比較は成立しない世界だ。だから、ここは勝者も弱者もいない世界が成立しているのだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

わが身に聞く

 外にいた敵が、自分の内なる敵や味方になるときもある。それらはみな私の利害によって変化するだけだが、それらが私を育てる、私の仏性を錬磨する試金石と思えばありがたくもなってくる。また、それらから離れるためには現在のこの身の事実に帰ることが大事だ。いまのここにいる自分を自覚することだ。
 因縁果の身として、ここにいることを与えられ、悩み苦しみを持っているまま、ここに息をして、目で見ることができ、耳で聞くことができ、口に念仏を唱えることができる身にだ。罪悪深重の身に帰る。息ができ、腹が減り、血が通い、手が動き、足が動くことをだ。自覚せよわが身に与えられている今の全てをだ。

わが身に聞く

 外にいた敵が、自分の内なる敵や味方になるときもある。それらはみな私の利害によって変化するだけだが、それらが私を育てる、私の仏性を錬磨する試金石と思えばありがたくもなってくる。また、それらから離れるためには現在のこの身の事実に帰ることが大事だ。いまのここにいる自分を自覚することだ。
 因縁果の身として、ここにいることを与えられ、悩み苦しみを持っているまま、ここに息をして、目で見ることができ、耳で聞くことができ、口に念仏を唱えることができる身にだ。罪悪深重の身に帰る。息ができ、腹が減り、血が通い、手が動き、足が動くことをだ。自覚せよわが身に与えられている今の全てをだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
 吾(われ)一人だけが尊いのではない、私が本当に平等に純粋に尊いなら我々一人一人が尊いのだ。人に生まれたことがまず尊いのだ。なぜなら人に生まれて人になれるから尊いのだ。それは仏の命に自覚的に目覚めることが出る存在だからだ。
人に生まれた時に人に備わっている仏の命の願いに目覚めることができる一回だけのチャンスが天から仏縁として賦与された尊い宝だからだ。
 私でありながら私を超えた尊い仏の命の願いに目覚める目的を完成させるための人生なのだからだ。仏のもっている本当の勇気や愛や希望に生きるための私の人生なのだから本当に尊いのだ。
 ナンマンダブツ
 ナンマンダ

尊い一人

 吾一人だけが尊いのではない、私が本当に平等に純粋に貴いなら我々一人一人が尊いのだ。人に生まれたことがまず尊いのだ。なぜなら人に生まれて人になれるから尊いのだ。それは仏の命に自覚的に目覚めることが出る存在だからだ。
人に生まれた時に人に備わっている仏の命の願いに目覚めることができる一回だけのチャンスが天から仏縁として賦与された尊い宝だからだ。
 私でありながら私を超えた尊い仏の命の願いに目覚める目的を完成させるための人生なのだからだ。仏のもっている本当の勇気や愛や希望に生きるための私の人生なのだから本当に尊いのだ。

ナンマンダブツ
ナンマンダ

エゴイズムの角

エゴイズムとは自分の欲のために利益を独占することしか考えられなくなってしまった悲しい鬼である私のことである。
この心に仏の慈悲がと通ると、それに気が付き、おそろしくなり、はずかしくなり、鬼の角が一本折れるのである。
 このとき鬼の目にも罪悪深重の自覚の涙が流れるのである。この鬼のままでしか生きられないと気が付いたところに、そのままで救う、それでいいのだ、エゴイズムそれしか100%ないものを救うというアミダの声が初めて聞こえてくるのだ。その時、鬼の頭に仏の金色の角が一本加わるのだ。まるで孫悟空の金輪緊箍児(きんこじ)のように。そして、弧の自覚をもって鬼の心を持って立派な人間として生きてゆくことができるようになるのである。緊箍児とは親鸞風に言えば信心のことである。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
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