カラスの独り言

絶対に平等になろうね

 みんな正しい美しい。たった一つの花を咲かせあう美しさ。平和のためなら命もいらぬ。規律規則は絶対厳守。電車、人生、一分一秒乗り遅れない。生涯能率完璧だ。息もつけない忙しさ。だけど息苦しくなって酸欠だ。どこかで一息入れたくて公園行ったら満杯だ。みんな平等に深呼吸。酸素を数量も平等だ。清く正しく吸いましょう、赤ちゃん、ばあちゃん、若人も酸素の量は平等だ。一分一秒美しい。爺さん、あかちゃん加酸素で苦しそう。
 いつまで続く平和平等。平等地獄が蔓延し、死ぬときまでも平等だ。平等地獄は終わらない。いつの時代にもある平和平等が好きならば不平等を嫌う心がある限りホントの平等の花咲かず。不平等にみえるありのままの姿が見えない限り平和平等主義の鬼笑う。

ナンマンダブツ
ナンマンダ

希望と絶望

本当の絶望とは自力意識が行き詰った時に、はじめて向こうから呼びかけられた時に気が付いた時に初めて絶望していたことが分かるのであって、これが私の絶望だと意識的にわかるものは今の希望が立たれたという事にすぎない。
 本当の絶望は絶対者に救われなければ味わえないもので、自分勝手に自己決定できるものではない。自己決定の舌鋒の後には真実の希望も勇気も愛もわかないので、それが段階的なものだとわかるのである。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

救われ続けてゆくだけだ

 救われるって、自分に何かを加えたり、減らしたりすることなく今ここに与えられてある私の全てに気が付くこと。
 汝自身を知れ、限界を超えるなとデルフォイの神託にあるように、知る努力して自らの心の全てに気付くことであり、知った自分に自分がなってゆくと言う事でしょう。知ることが、やがて自らを信じるところまでいかなければ、本当に知ったことにはならないのでしょう。
 信と知が一如になることだと思うのです。つまり、自分が自分になってゆく。人間が人間になる。私が本来の一つの私になる。本来の自分に帰ってゆく。つまり、生まれた時から人間は一つとして生まれてきてはいないのです。二つになって生まれてきているのです。しかも、一つは仏としての未知な部分として隠れ持っているのです。
 だから人間が人間になりたいという人間の根源的で純粋な本能的な根本欲求という願いを持っているので、それに従って生きることができれば、そこに自然に心が本当の幸福を感じ満足する仕組みが心の構造上本来備わっているのです、幸福になるように本来から予想されて願われている人間存在なのだと思うのです。

ナンマンダブツ
ナンマンダ

二つの命

 私は今まで、わたしの心は一つしかないように思ってきた。それに従って生きてきた。だけど、なんとなく、そこにいることにいつも不安を感じていた。しかし、二つあることに気付いたとたんに、心のバランスが生まれてはじめて取れたような気がした。そして、いま、ここにいることに安定感を感ずるようになった。
 二つ目の心は仏さんの心です。その心は大地のようです。そこに小さな根を張って私は生きていたのです。これに気が付かないとふわふわした生き方になっただろう。その命の大地から私は小さな命をもらって今生きている。この命はこの身を支えてくれている大地に朽ち果てていくのだ。
 なんという安らかさにつつまれていることだろう。命の大地と共に生きていくことが。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

長い旅

私にとって一番素敵な宝物は生まれた時からずっと与えられていた。自分で自分を探す不思議な宝探しになった。
今思えばそんな宝探しをするための大事な人生だと思えるようになった。
 思えば長いようであっという間の旅だった。
今やっと出会えたんだ。もう掴まなくてもいいものになったんだ、掴まれていたことにやっと気が付いたんだ。
外にあると思って、何度も探し回ったけれど、掴んだ途端に手からこぼれ落ちる砂のようなものしかつかめなかった。だけど、こんな身近に輝いていたんだな。肩のそれまで肩に力が入っていたんだな。やっと肩の力が抜けてしまったよ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

石を積む

 仏の言葉が書かれたものを読み始めは仏の言葉が書かれた石を積むようなものだ。ひとつ積んでは、また一つ積み重ねる連続だが、いつもその石の上に立っているのは自分なのだ。
 その石を天井まで積み上げて、いつかそのバランスが崩れて壊れてしまうまで生きている限り積み重ねてしまうのが仏道だと信じてしまうのだ。
 だが、人によっては、それがいつか仏と私の時が熟した時、せっかく積んだ知識の石が足元から崩れて地面に落ちた時初めて、だれでもが最初っからアミダの大地にいだかれていたことを知るのだろう。
 この宗教体験がなければ、だれでもがこの当たり前の大事な世界に、何時までも気がつくこともなかっただろう。これも、石が崩れ去ったおかげだな。崩れ去って気が付いた後でも生きてる限り積んで行く。だけど今度は積んでいく石は人のため、我の為になってゆく。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

離れ離れの二人だったけど

 私は私の本当の変わらないいのちを発見しました。というより、本当の命のほうが私を見つけたといった方が本当らしいのです。
 だって、私は最初からそんな目的で生きてこなかったのだから。
 むこうのほうがわたしをさがしていた、という、もとめられていた、いつか一緒になりたいよと言っていたらしいのですよ。
 似て非なのに、どこが似た者同士なのか一生かかっても出会えないと感じられていたものが出会ったようなのですよ。
 向こうの方がわたしより、よっぽどうれしかったようです。よかれあしかれ、出会えて私もうれしいです。二人とも本当の私自身だったのですから。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

自己責任はどこにあるの

 自分の人生はすべて自己責任だと自身に納得できれば、最後の責任から自分自身が解放されるのかもしれません。
 つまり、自己責任の最後は宗教というものにこそ私は究極の自己責任の出どこがあると思うのです。
 なぜなら、それまでの自分で築いてきた人生観が根本的に変わってしまうからです。そこから出たものでなければ自分自身との最後の命のやり取りができないからじゃないですか。

 その意味で宗教というものは、すべて他人が決定するのでなく、最終的な自己とするものによる自己自身のための決定でなければならないと思うのです。  
 なぜなら真理はすべての人のための一義的な人格的な表現を伴った者でありながら、全ての人を救うという普遍的な要素を持った存在でなければならないからです。
 肉体を持たなければ真理に到達できないという不便さを持っている以上、真理そのものにはなれないからです。
 真理はそういう意味で透明でありながら実在に何時も接触している存在であらねばならないからです。
 だから、本当の意味での宗教とは究極の独善主義を人間にもたらすが、その中に愛や智慧という無限の命と智慧という、すべてを目覚ましめる輝きを持ったものでなければならないからなのです。
 ここにこそ自身の決定を持った者こそが最後の自己責任を持つもことができる人となり人間になることができるのであり、他者の決定による責任論は自己を見失った依存や逃避論に陥らざるをえないことになるのである。
 つまり、神や仏との直接的な対話による自己自身の最終的で決定的な救済が自身の中に自己実現しなければ、結局、最後の責任は他者に委ねることになってしまうからです。
自身の人生はやはり自律的であれ他律的であれ、たった一回だけの人生の責任者は私一人だけなのですから、完熟した人生にするものはこの決定から人生の全てが始まるように考えるのです。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

ここはこのままでいい

見えないものがみえて
聞こえないものがきこえてきたら
自分が一変する
 みんな仏の種をもって生まれてきている
もっているだけではないのと同じだ
人生の風雪に耐えることができなくなった人が
偶々、見えていなかったものがホントにみえた
聞こえていたはずなのに聞こえていなかった仏様の声をきくことができたとき
最初からなかったのではなくてあったんだ。
 あったものに気がつかなかっただけなんだ
赤い花は赤くて、黄色い花は黄色く仏の縁を生きていたんだ
 当たり前にみえる世界にはじめて目覚めただけなのだ
ナーンダこんなあたりまえの世界に生まれたのか 
ここはこのままでいい世界だったのか
ナンマンダブツ
ナンマンダ  

寂しい夜に

寂しいですか
つらいですか
もうこれ以上ガマンできないですか
だけどね きっとね 
いままでもずっとあなたのそばに
いつもあなたのことを知っているひとがいるんですよ
寝ているときもいつもあなたを後ろから抱きしめている人がいるんですよ
いつもそばにいる、見えないひとはいまあなたと一緒になっている人です
そのひとはあなたの全てのくるしみや楽しかったこともみんな知っています。
「本当に知っているんですか、聞いているんですか?」と尋ねたらきっと答えが返ってきます。
その返事を聞いたら、すこしは、こころが楽になるかもしれません。試してみてください。 
ナンマンダブツナンマンダ
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