カラスの独り言

二度救い

 アミダ様はこの世で我々を二度救う。自分の中の正しさに反する者との終局に矛盾なき統一をもたらす世界に救われれば、物質的な問題解決や援助をもたらしてくれる訳ではない。ましてや手助けなどはしてくれない。しかし、根本的な無明の欲望が消えた時から、アミダ様が私に正しい見方を教えてくれるから、物質的な欲望に苦しむうちにも、そのまま欲望の世界に帰ることができる仏の世界を確かに感ずることができるようになるのだ。
なんまんだぶつ
なんまんだ

福の神

 福の神と貧乏神は私なんです。あなたじゃないんです。二つの神が私の中に生きているんです。それは分別心なんです。自我意識が作り出す幻影なんです。
 外から与えられたもの、出会ったものを、その時の私の勝手な価値観に当てはめて決めているだけなんです。実はどちらももともと一つになっていた仏さまの分身なんです。私には二人に見えるだけなんです。ナムアミダブツを分解すれば二つになるんです。だけど分解してもアミダさんの心はわからないのです。
 私たちがよしとする善も悪も福も凶も、元々そんなものは人間の自我意識の都合に合うように勝手に作り上げた人間だけの価値観からできているんです。
 それらはみんな仏さまが人間を一つの人格にするための様々な意匠にすぎないんですよ。

ナンマンダブツ
ナンマンダ

いのちの記憶

 今までいろいろなものを食べてきた。みんな私と同じ命を生きてきた。海や陸で自由勝手に生きていた命だ。
それらには、それぞれの人生があったのだ。そこで生きてきた記憶をみんな体と心に刻んでた。それを食べてる私の血や体になって私は大きく育ってきた。命でない食べ物は一つもなかったのだ。食べなければ生き残ってこれなかったのだ。 
 だから、私の体からわたしの心の奥にそれらのいのちの記憶がいっぱい溜まって詰まって満杯だ。いろいろな命が私になり、私が命の連絡係になり、命のきおくを伝えることが、死んで行ってくれた命に対する正当な贖罪と感謝になるのだ。
 だから、私の命はわたしだけでなりたっているのではないのだ。様々な命の中で生かされている命のひとつにすぎないのだ。謙虚にこのたった一つの命の輝きを命たちと生きようではないか。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

清浄意欲って何

1.
仏の無分別智に目覚めれば真実に近づき、自分と世界の真実が見えてくる。無常なのに無常の中に有常の世界が見えてくる日常が深くなる。
 それが自らの生きる力になり、それがそのまま、自覚しなくても他にそれを知らせる仏の心が強くなってくる。これを人間本来持っている仏の領域ともいうべき世界を広めたい心を清浄意欲と言う。
2.
 清浄意欲とは全ての命が持つ根源的な心の意思であり、根源的で無分別的な盲目的な欲望であるから自己制御できない欲求に命は息を引き取るまでこの意思に従って生きていきたい清浄な意欲を持って常に生きているのである。
この完成を人間も最終的な目的としてこの魂の歴史を刻んできたのである。そして、その無限の完成に向かって魂は今も向上しているのである。見果てぬ夢を何時までも夢見ている少年のように。

白い道

 二河譬の白道は、宗教心の方から、それを得ようとしてきた機との時期が時機純熟を得て向こうから伸びて来て、その人の自覚心に訴えた時、その人が自覚した時と同時の事態の時に如来がその人と一体化するのである。
 すなわち「すでにこの道あり」とは真実信心とその人が宗教心に目覚めた時とが同時の時を自覚した時をいうのであり、その人の宗教心への自覚、すなわち救いが同時進行した姿なのでもある。
 この清浄願往生心は清らかな仏の純粋願心であり、真実への歩みを促すこころでもあり、それ自体にダイハツ涅槃の無が真、無分別心さえ包含している心なのであり、これが純粋煩悩の人間の中に矛盾なく起こるという不思議な働きが矛盾なく凡夫に両立することこそが真実の救済、自己発見、真実の自己を知るということの中身なのである。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

天の国からのエレベーター

いま、天の国から大きなエレヘーターが下りてきた
 借金に追われている人。人間関係で悩んでいる人、病気の人。仕事に失敗した人。恋人と別れた人。
 自殺したいと思っている人。天国で投資をしてもっと儲けたいと思っているお金持ちの人。
 一度だけ天国に行ってみたいと思っている人。
神様が本当に要るのかどうかこの目で確かめたいと思っている人。
 一度は神様と話したいと思っている人。
いろいろな理由で天国に行ってみたい人で満員になっていた。
 ドアが閉まると、そのまま地下へ降りて行った。大きな窓からどんどん地下に降りて行ったので「ギヤ―どこに行くんだ!」降ろしてくれといって大きな窓から外へ飛び出す人が続出しました。真っ暗い地下にたどり着くと、みんな一斉にテンデンばらばらに逃げ出しました。エレヘーターが地上に戻って来た時には誰一人入っていませんでした。
 地上では、それまで外で遊んでいたおおぜいの子供たちがエレヘーターに乗ったらエレヘーターはそのまま静かに上に昇っていきました。
全知全能の神様がいくら神意を込めた善意を人間に与えても。人間の意思は神の絶対の善意を知るべくもないのだろう。ただ、黙って乗っていれば神の意思として、たとえ地獄に落ちたとしても、それを受け入れる覚悟がなければ、天国に帰ってゆくエレヘーターには乗り続けていられなくなってしまうのだろう。
 たとえ地獄の鬼が「これに乗ってゆけ」と言ってもこれに乗ってゆかなければならないときは自分の意思に反しても、乗ってゆくべきなのだ。自分の意思では人生一向に救われなかったからだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

生前全身予約往生完全版

 耳で聞いて安心できると気づきと、腹の底から得心できる気づきがある。耳で聞いたときにも軽く頷くときと、腹の底の、また底の腑に落ちる気づきがある。 
 その場しのぎでも、それらを頭にいっぱい貯めこんで、臨機応変に取り出して対人用や職業の道具としてひけらかす場合によく用いられる時がある。
これを耳だけ往生と言う。耳だけが極楽にキノコのように生まれて生えるのだそうだ。別名、耳学問ともいう。
 腹の底から頷けたときは、その知識はアミダの智慧に変質して、その人の一生の方向性を決定してしまうほどの威力を持っている。これを腹底往生と言って親鸞聖人などが味わった極楽浄土への聞き方だ。極楽に全身で往生するタイプだ。これは頭脳往生と違い、生前全身予約往生完全版と言う事に私は決めた。 

ナンマンダブツ
ナンマンダ 

恩てなんだ

  恩について
 恩と言う字がある。因と心から成り立っている。
 仏教の恩は四恩といって衆生、国王(国土・釈尊)、三宝、父母。因の中にある大は、布団の上に大の字になって寝ている人間の姿。下の心は目に見えない因縁果をつかさどる仏の働き。人はこの中に一人生まれ四恩に支えられて生きている。生まれたら四恩でできている私になる。四恩がなくなれば私という存在は成り立ちません。
 父母がいなかったら私はここにいませんが、その父母も衆生という命あるものを食べなければ生きてはいけません。そして、その衆生も国土がなければ生きてはいけませんし、それを耕し育てる人々のリーダーとしての存在も必要です。
 その人々の心の支えである生きとし生けるものが自由に、そして自然に生きてゆける自然の道理である三宝の精神的な支えがそれらの基本が充分にその人に働いていれば囗のなかにうまれた人間は本来持っている人間らしい人間に育ってゆけないのでしょう。それが大の字になって自然に生きてゆくことができるというこの言葉に込められた真意ではないのかと思うのです。
 ですから四恩はみんな繋がって一つなのです。その恩の中に私は生まれたのです。
そして、四恩はすべて下の仏の心のはたらきに支えられていますが、なかなかこの下にある心に気付く人は多くはおりません。人は順風満帆に生きているときは何も感じませんが、四恩の要素が一つでも欠けた時に、私たちは自分の小さな心を悩ませていきます。
 この囗の中で精いっぱい、人相が変わるほど努力していても、愛する人を失い、突然の不幸に襲われたり、自身の体調が不調になったり死を意識した時などには、不安と恐れから、この環境と心境から抜け出そうと努力します。
しかし、前にも後ろにも、そこにもとどまれず、しかも大地が裂けて直下に墜落してゆくかもしれないと思う努力の絶頂に到達してしまい、どこにも手の出しようがなくなってしまう時もあります。
 いわゆる神も佛もあるものかという精神状態です。ここまで落ち込んでしまう人もいますが、そうでない人もいるのですが、様々な経験があるようです。その時いま立っている大地が避けて、そこに立っていられない状況になるのです。
 その時、その人自身を含めて、その人の全てを支えていた全てのものが下の大きな心に落在する経験が与えられるのです。そこで初めて四恩を支えていた大いなる心に直接触れ、自分のか弱き小さな心を初めて知るのです。因の下にある大きい心に気が付いた人は、この人間の努力の頂上の上に立っていたことを後から知るのです。
そして、命の平等の大地に落ち切った時、永遠 の静寂を破るように、そこに神の手や仏の声がとどくときがあります。
この大いなる心、大きい心とは仏の心と言いましたが、因と縁と果をつかさどる、目に見えない絶えざるはたらきを言うのでしょう。たとえて言えば母なる大河とで言えばよいのでしょうか。全てのものはそこから生みだされ、またそこに帰ってゆく無心の命の故郷ではないか思うのです。自分が作った正義も悪も善も、清濁なども含めて帰って行ける魂の安心なふるさとなのでしょう。この流れの中に生きとし生けるものは漂って縁のままに生かされているのです。


 それまでは、生まれたままの自分の心は無限の可能性を秘めていると信じて生きています。自分の確固たる意思があれば何でもできると信じています。実際にできる、できないは別にしてですが。
 しかし、この大いなるこころの大地に一度落ちてみると、これを境に囗のなかでの人生は自分に都合の良いように損得や勝ち負けのバランスを取れるだけ取って生きてゆくことができていたのですが、それは、あくまでそれができる範囲だけでのことであって、落ちた時から、それらはすべて自己保身や、自己自身の利益に都合のいい方を取ってきただけの仮の自分を本物の自分と錯覚していた、仮の衣装を着た自分でしかなかったことに気が付くのです。
 つまり、自分は具体的にここに生きてきたし、ここに生きていることは確実であって、様々なご縁に生かされていて、適当に感謝や反省もしているのだと信じていたのですが、本当の自分とは、四つの縁が仮にまじりあって私と言う存在を成り立たせていたのであって、この生きた縁が終われば私と言う存在も生きる縁が尽きれば死の縁が与えられ大いなる心に帰ってゆく存在の一瞬をいま生かされているにすぎないのだと気が付くのです。
 その生の一瞬が輝きに変わるのは大いなる仏の心と共に生きるときに発揮されていくのだと知らされるのです。
ですから、例えば、父母との縁も父母が父母になる前は、その自覚があろうとなかろうと大地を支えている大いなる仏の心から生まれた子どもだったのです。
 ですから父母が勝手に子供を産んで子育てするのではないのです。赤ん坊は仏の心から生まれたのだから仏の子を授かり、仏になるために手助けしているにすぎないのです。それを、我が子、我が子と、我が子を私物化してしまえば親の人生の代用品やただの道具として見てしまいがちです。そのような私物化してしまう小さな心は大いなる心に救われても少しもなくなりはしませんが、一度それに気が付いた時から、小さい心を持ちながらも、いつでも大きい心に帰って、子供を養育することが、親が親になるために小さな心が大きな心に育ってゆく大事な機会なるのです。
 親子で大きな心に育てられてゆく、その道が仏になってゆく自覚をもって仏の心を知り、仏に帰ってゆく準備をする人生に切り替わってゆくのです。
 それは仏縁としての親子が親子のままで同じ故郷に帰るためにです。夫婦も同じことでしょう。
 死んだり、生まれたりする前は囗のなかには誰もいないのです。たまたま、仏縁があってその中に生まれてきたのです。大きい心に会いたくて帰りたくて、自らの責任で両親を選んでこの縁の中に生まれる意思を持って生まれてきたのです。
 そして、私たちを支えている四恩を喜んだり、欠けたりを通して何度も仏の心に帰り、仏の心を共有する願いに生きる人間になってゆくのです。
 生きる縁がなくなってこの世にいなくなるという事、死ぬ縁に会うという事は、愛や希望や勇気が入り混じって現実界を必死に無心に支えている、いま現に私の目の前で働いて私を支えている仏の命の中に帰ってゆくことなのです。死んだ後まで心配することはありません。仏様に任せておればいいのです。任せるしかないじゃないですか。死後の魂や精神科医の心配までこの世で案じることは無用のことです。

 仏像の静かで穏やかな姿に感動したり、仏様の話を聞いたりすると、何となく何かを心の底に感じるとき、なつかしい心の故郷からあたたかくも静かな声で呼び返えされるように感じるとき、それは、大いなる仏の心からの呼びかけであり、自分自身への目覚めを呼び掛けている声になった大いなる心のはたらきの実感なのでしょう。
 最初のうちはどうしても恩を知らずにみんな恩の中に生かされていることをしりません。
しかし、やがて仏の心と共に起き、仏の心と共に眠れるような人間になりたいという希望はみんな持っているのです。だから、みんな、今日一日だけでも大の字に寝転がって心ゆくまで一度だけでも安心して眠ってみたいという人生をみんな夢見ているのです。 

ナンマンダブツ
ナンマンダ     

魂の起源

生物学的な人間の命の起源の歴史は遠いが、魂の起源は一体どこにあるのだろうか。宗教的に救済されてからの意味では、実体的な意味ではなく、私がここに至るまでには長くて暗くて深い魂の迷いの遍歴があったようである。
 偶々、この世で救われたことによって、ここが最終流刑地になり、しかも魂の終身刑から突然、無罪宣告を受け自由な精神が与えられた今があるから、それが確信できるのであるが。
 私の長い迷いの刑期にも似た魂の迷いの歴史の中には、たぶん、救済にふれる機会が充分ありながら、救われない機会の方が多かったとすれば、今回の救いから、救いと、迷いのこもった魂の長い迷いの歴史だったことが分かる。だから迷いこそが私の魂の始まりであり、そこが魂の始原だったことが分かるのだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

命の起源

 生物学的な人間の命の起源の歴史は遠いが、魂の起源は一体どこにあるのだろうか。宗教的に救済されてからの意味では、実体的な意味ではなく、私がここに至るまでには長くて暗くて深い魂の迷いの遍歴があったようである。
 偶々、この世で救われたことによって、ここが最終流刑地になり、しかも魂の終身刑から突然、無罪宣告を受け自由な精神が与えられた今があるから、それが確信できるのであるが。
 私の長い迷いの刑期にも似た魂の迷いの歴史の中には、たぶん、救済にふれる機会が充分ありながら、救われない機会の方が多かったとすれば、今回の救いから、救いと、迷いのこもった魂の長い迷いの歴史だったことが分かる。だから迷いこそが私の魂の始まりであり、そこが魂の始原だったことが分かるのだ。

ナンマンダブツ
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