恩てなんだ

  恩について
 恩と言う字がある。因と心から成り立っている。
 仏教の恩は四恩といって衆生、国王(国土・釈尊)、三宝、父母。因の中にある大は、布団の上に大の字になって寝ている人間の姿。下の心は目に見えない因縁果をつかさどる仏の働き。人はこの中に一人生まれ四恩に支えられて生きている。生まれたら四恩でできている私になる。四恩がなくなれば私という存在は成り立ちません。
 父母がいなかったら私はここにいませんが、その父母も衆生という命あるものを食べなければ生きてはいけません。そして、その衆生も国土がなければ生きてはいけませんし、それを耕し育てる人々のリーダーとしての存在も必要です。
 その人々の心の支えである生きとし生けるものが自由に、そして自然に生きてゆける自然の道理である三宝の精神的な支えがそれらの基本が充分にその人に働いていれば囗のなかにうまれた人間は本来持っている人間らしい人間に育ってゆけないのでしょう。それが大の字になって自然に生きてゆくことができるというこの言葉に込められた真意ではないのかと思うのです。
 ですから四恩はみんな繋がって一つなのです。その恩の中に私は生まれたのです。
そして、四恩はすべて下の仏の心のはたらきに支えられていますが、なかなかこの下にある心に気付く人は多くはおりません。人は順風満帆に生きているときは何も感じませんが、四恩の要素が一つでも欠けた時に、私たちは自分の小さな心を悩ませていきます。
 この囗の中で精いっぱい、人相が変わるほど努力していても、愛する人を失い、突然の不幸に襲われたり、自身の体調が不調になったり死を意識した時などには、不安と恐れから、この環境と心境から抜け出そうと努力します。
しかし、前にも後ろにも、そこにもとどまれず、しかも大地が裂けて直下に墜落してゆくかもしれないと思う努力の絶頂に到達してしまい、どこにも手の出しようがなくなってしまう時もあります。
 いわゆる神も佛もあるものかという精神状態です。ここまで落ち込んでしまう人もいますが、そうでない人もいるのですが、様々な経験があるようです。その時いま立っている大地が避けて、そこに立っていられない状況になるのです。
 その時、その人自身を含めて、その人の全てを支えていた全てのものが下の大きな心に落在する経験が与えられるのです。そこで初めて四恩を支えていた大いなる心に直接触れ、自分のか弱き小さな心を初めて知るのです。因の下にある大きい心に気が付いた人は、この人間の努力の頂上の上に立っていたことを後から知るのです。
そして、命の平等の大地に落ち切った時、永遠 の静寂を破るように、そこに神の手や仏の声がとどくときがあります。
この大いなる心、大きい心とは仏の心と言いましたが、因と縁と果をつかさどる、目に見えない絶えざるはたらきを言うのでしょう。たとえて言えば母なる大河とで言えばよいのでしょうか。全てのものはそこから生みだされ、またそこに帰ってゆく無心の命の故郷ではないか思うのです。自分が作った正義も悪も善も、清濁なども含めて帰って行ける魂の安心なふるさとなのでしょう。この流れの中に生きとし生けるものは漂って縁のままに生かされているのです。


 それまでは、生まれたままの自分の心は無限の可能性を秘めていると信じて生きています。自分の確固たる意思があれば何でもできると信じています。実際にできる、できないは別にしてですが。
 しかし、この大いなるこころの大地に一度落ちてみると、これを境に囗のなかでの人生は自分に都合の良いように損得や勝ち負けのバランスを取れるだけ取って生きてゆくことができていたのですが、それは、あくまでそれができる範囲だけでのことであって、落ちた時から、それらはすべて自己保身や、自己自身の利益に都合のいい方を取ってきただけの仮の自分を本物の自分と錯覚していた、仮の衣装を着た自分でしかなかったことに気が付くのです。
 つまり、自分は具体的にここに生きてきたし、ここに生きていることは確実であって、様々なご縁に生かされていて、適当に感謝や反省もしているのだと信じていたのですが、本当の自分とは、四つの縁が仮にまじりあって私と言う存在を成り立たせていたのであって、この生きた縁が終われば私と言う存在も生きる縁が尽きれば死の縁が与えられ大いなる心に帰ってゆく存在の一瞬をいま生かされているにすぎないのだと気が付くのです。
 その生の一瞬が輝きに変わるのは大いなる仏の心と共に生きるときに発揮されていくのだと知らされるのです。
ですから、例えば、父母との縁も父母が父母になる前は、その自覚があろうとなかろうと大地を支えている大いなる仏の心から生まれた子どもだったのです。
 ですから父母が勝手に子供を産んで子育てするのではないのです。赤ん坊は仏の心から生まれたのだから仏の子を授かり、仏になるために手助けしているにすぎないのです。それを、我が子、我が子と、我が子を私物化してしまえば親の人生の代用品やただの道具として見てしまいがちです。そのような私物化してしまう小さな心は大いなる心に救われても少しもなくなりはしませんが、一度それに気が付いた時から、小さい心を持ちながらも、いつでも大きい心に帰って、子供を養育することが、親が親になるために小さな心が大きな心に育ってゆく大事な機会なるのです。
 親子で大きな心に育てられてゆく、その道が仏になってゆく自覚をもって仏の心を知り、仏に帰ってゆく準備をする人生に切り替わってゆくのです。
 それは仏縁としての親子が親子のままで同じ故郷に帰るためにです。夫婦も同じことでしょう。
 死んだり、生まれたりする前は囗のなかには誰もいないのです。たまたま、仏縁があってその中に生まれてきたのです。大きい心に会いたくて帰りたくて、自らの責任で両親を選んでこの縁の中に生まれる意思を持って生まれてきたのです。
 そして、私たちを支えている四恩を喜んだり、欠けたりを通して何度も仏の心に帰り、仏の心を共有する願いに生きる人間になってゆくのです。
 生きる縁がなくなってこの世にいなくなるという事、死ぬ縁に会うという事は、愛や希望や勇気が入り混じって現実界を必死に無心に支えている、いま現に私の目の前で働いて私を支えている仏の命の中に帰ってゆくことなのです。死んだ後まで心配することはありません。仏様に任せておればいいのです。任せるしかないじゃないですか。死後の魂や精神科医の心配までこの世で案じることは無用のことです。

 仏像の静かで穏やかな姿に感動したり、仏様の話を聞いたりすると、何となく何かを心の底に感じるとき、なつかしい心の故郷からあたたかくも静かな声で呼び返えされるように感じるとき、それは、大いなる仏の心からの呼びかけであり、自分自身への目覚めを呼び掛けている声になった大いなる心のはたらきの実感なのでしょう。
 最初のうちはどうしても恩を知らずにみんな恩の中に生かされていることをしりません。
しかし、やがて仏の心と共に起き、仏の心と共に眠れるような人間になりたいという希望はみんな持っているのです。だから、みんな、今日一日だけでも大の字に寝転がって心ゆくまで一度だけでも安心して眠ってみたいという人生をみんな夢見ているのです。 

ナンマンダブツ
ナンマンダ     

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