カラスの独り言

宗教公園

 親鸞の言う「悪人」とは、宗教心に目覚めた本来の人間性に目覚めた人を言うのだ。宗教心とは人間のみならず生き物全ての命に共通した広大無辺な精神空間を占める公園のようなものだ。だから自分で自分や他のものを独り占めしない自由な人の事を云うのだ。       
 本来の宗教心とは、だれのものでもなく、何処にも偏らず、何時でも働いている自由な精神空間にあるものなのだ。その中に私たちは命をもらったのだ。だれのものでもないが、みんなのものなのだ。そうだな、空気のような物かな。空気はみんなで作って、皆で利用して、みんなが生きる基本なんだが、それ自体、誰も束縛はしないのだから。それに行かされていることさえ私たちに気付かせさえしないのだから、たぶん、一番偉いんだと思う。
なんまんだぶつ
なんまんだ

返事は「はい」と言いましょう

 「〇〇さん~」と病院で名前を呼ばれる。最近は番号でも呼ばれる。「はい」と返事をする人は少ない。症状が重い人は、今か今かと呼び出しを待っているのに。
アミダさんに呼ばれてもそうだ。すぐ返事をする人もいるし、まるで他人事の様にずっと返事をしない人もいる。
 患者をみんな救うというのに、病院に来て他の事ばかり考えたり、この医者は本当に大丈夫なのかと考えたりしていれば、当然、返事が遅れてしまうのだ。自分の考えに自信があるほど結果、手遅れになる場合がある。
 だから、アミダ医者は、みんなを助けるといっても、呼ばれてすぐ返事をしない人は、いないと思い、次の人を呼んでいるだけなのだ。実は、いつでも私を一番先に呼んでいるだけなのだ。呼び方が悪いとか、自分の方が気付かない事までアミダ医者のせいにしている人もいるのだから困ったものだ。
 それでも、何時までも返事を待っているのだから、嘘でもそろそろ「はい」と返事だけでもしておけば。  

なんまんだぶつ
なんまんだ

私の誕生日

 今日は、私の誕生日だ。母親と父親の体から生まれた日だ。心も成長するような機能も付いていた。そして、いままで様々な縁につながれていたお陰で体も心もここまで育てられた。
 だが、体はこのまま成長するわけにはいかないが、心も同じだろうか。
心は過去にも未来にも飛んでゆけるし、ブッダの永遠なる自由で平等で静寂なる悟りの世界に至れる機能も付いている。人間の生死さえ超越できる世界を感覚できるのだから、心と体は相互関係にありながらそれぞれ独立した存在になる。
 心が永遠の世界を悟って本当の成長を知った時、体の限界を飛び越えた世界を知ることもできるはずだ。だとすると、体は心の機能を最大限に発揮させるための発射台ではないのか。心は無限の宇宙に発射されるロケットのようなものだ。
 土台があるうちに遠い世界に至る悟りロケットを作り、それに乗って土台が勝手に作り出す限界世界を飛び越えて、永遠の世界へ飛び出し、成功する日を、人間の本当の誕生日にしようではないか。希望に満ちた永遠の自由なる静寂の世界へ、いざ、生まれん真実の誕生へ!

なんまんだぶつ
なんまんだ

木守

―木守―
 柿やリンゴの収穫後に一個を木守として残すのは来年の豊作を願ってのことだという。
蜂や鳥のために残しているという。
禅宗の修行僧が鳥や動物や見えない餓鬼の為に一口ご飯を残すのと少し似ています。
 リンゴの木からしたら、リンゴはリンゴの子供でしょう。それを人間が育てたというけど、もともとリンゴはリンゴのものでしょう。リンゴの子供の成長を最後まで見たいのは人でも同じでしょう。リンゴの木は子供のリンゴを大地に産み落とすまでが親の責任なんでしょう。そんなリンゴの親の気持ちを汲んで強欲な人間の一人が申しわけないなの気持ちで、せめて一人だけでも最後まで見守ってやらせたいと思ったのでしょうね。
 そんな感謝と懺悔の気持ちが籠った気持ちがあって残したのでしょう。リンゴに生かされているからこその自然な人間の気持ちでしょう。
 木守の思想は長い間に人間の方がリンゴの木から教えられた思想でしょう。リンゴの命も人間の命も平等だという考えから出て来た気持ちだと思います。感謝しているのはいつも人間の方だと思います。
 柿やリンゴを食べているといつかリンゴや柿の気持ちが分かるらしい、リンゴにも人間と同じ精神が木魂と言う言葉でいまの日本人には伝わっているらしい。
 人間はリンゴを育てているんじゃない、リンゴから人間が育てられているんだな。
二人で一緒にあみだ仏に育っているんだな。
なんまんだぶつ
なんまんだ

純粋未来に生きている

 みんながみんな今が一番大事という。しかし、そういった途端に、その今はすでに過去になっている。過去から今には届かないし、未来から過去にもどることもできない。今はいつも今という過ぎ去る今の連続で、頭で考える固定的な今はもういない。いつも流れ去ってゆく川の流れの中の一滴にしか過ぎない。そこにしか存在しないし、それもまた、いつも変容している存在だ。
 誰もこの時の流れを止めるとはできないし、何処へ行くのかもわからないが、生々流転していることだけは確かだ。止めることができないという今は、永遠の流れの中にしか存在しない。流れ、変容してゆく命を今、与えられ、輝いている、その流れの中にみんな溶け込んでゆくのだ。
一言でいうと曽我先生の純粋未来と言う事だ。
なんまんだぶつ
なんまんだ

宇宙生命なんだな

私は時の無い無限の時を、自分の人生に合わせて小刻みに刻んで生きて来た。朝が来た。夜がきた。何時に仕事だ。もう寝る時間か。こうして私の命は刻まれてゆく。
 私は無限の中のひと時を奪って私の命をいきている。無限の時間の中の一瞬の命。私の命は無限の中の時間にある。この一瞬に無限の命を感ずることができる時がある。無限の命を生きている仏に出逢ったときだ。その時にしか私の命の無常を知ることはできない。しかし、その時こそ無常の中の無限の有常を感ずることができる貴重な一瞬だ。そこで、初めて私は真の自由を得て、無限の宇宙の命と共同生命体として生きることができる人間に生まれ変わることができるのだ。
 生と死からの超克された真の生命がここに誕生したのだ。
永遠の命の連鎖という因縁果の躍動感を感ずることができる世界に生きることができる人間に生まれ変わることができたのだ。人間からの解放だ。否、真実の人間として生きることができる、第一歩を踏み出すことがここから始まるのだ。これが全ての人間に開かれた。究極の宇宙生命への目覚めの導きともなるのだ。
なんまんだぶつ
なんまんだ

めでたしめでたし

 ブッタは「人生は苦なり」と言った。生きていることは、心が作り体が作り出す全てが苦にあらざるものなしと見極めた。
 親鸞は「地獄一定すみかぞかし」と言った。生きていることが罪づくりの地獄こそ我が住処であると決定した。
 人生は苦の連続であり、楽と見えるものも実は苦の世界の作りものだと悟った人の言葉だ。
 仏の目から見れば、どんな人間でも地獄を作らねば生きていけないし、地獄に落ちていくし、落ちていることが自然なことなのだ。そこに人間の救いはない。
 しかし、地獄に落ちて閻魔大王の浄玻璃裁きを受け「その通りです」と生前の罪を全面肯定して、自ら「地獄が私の住まいです」と覚悟が決まった、その時、はじめて閻魔大王が「お前の後ろに、お前を迎えに来ている人がいる」と言われて、私の後ろにずっと待っていた阿弥陀様の存在を初めてこの世で知るのである。
 その時、はじめて差し出された左手に引かれて、いやいやながら極楽浄土に行くことができるのである。めでたし、めでたし。ナンマンダブツナンマンダ

地獄行きだよおっかさん

 信心を獲て20年もたつと、いつの間にかこの世とこの心を極楽に見立ててしまう癖がついてしまっていた。つらい辛いと思う心がその証拠だった。
 生きている限りは人生は苦也とブッダが言っていたことも忘れていた。生きている限り地獄なのだ。地獄の業を作って地獄行きしかなかったのだ。
 だから地獄の夢や地獄に往く業をつくる毎日でしかなかったのだ。極楽浄土はあみだ様の仕事、私は地獄行の業を作るしかなかったのだ。
 極楽往きに手の出せない悲しき凡夫ここにあり。

なんまんだぶ
なんまんだ

主観と客観の念仏

 空也上人の口から出ている六字の念仏像は歩く実践念仏の救われた姿だ。教典を読んだり聞いたりして長い時間をかけて終に一片の悟りさえ得られないより、今ある悩みをただ静かに念仏と共に歩くことによって悩みを口から掃き出し、心の解放感を、一気に獲得するための庶民念仏の実践の道であった。
念仏ひとつでいい。ただ念仏と言いながら、何年にもわたる教学を覚え込み卒業資格を得ねば信用されない教界の世界と違い、それは、もともと救われた人の集まりであったサンガを取り戻すための歩く実践念仏の完成した姿でもあった。
 簡単に心が解放されるはずの念仏がここまで堕落し、衰退した原因は、悩みのない人々が悩みのある人々の悩みを教学の中の言語に閉じ込め、さらにそれを複雑化することによって、さらに救われていない人々が暇つぶしをするためのより良い生活の道具になったからである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

汝の敵を愛せないのなら

 阿弥陀様の全ては一つであるという絶対的に認識する智慧をもらったら、私の心の中の敵が私の相対的な認識方法から起こるものである心の病が一番の問題だと知った時から、この根本的な戦いはひとまず終止符が打たれる。そして、私の心に、この世での心と体に平和がひと時訪れる。
 次に同じ問題が出ても、解答方法は同じである。これを如自當知という。これを汝の敵を愛せと言う。
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