カラスの独り言

摂取不捨は真理の躓き

 真実に背を向けて生きて行くことしか出来ない私をそのままで救われなければならない阿弥陀仏はすでに私の心の矛盾に対応して第十八願文にすでにその準備をしていた。
 一生、真実に背きながら生きて行かなければ生きていけないものの為に救われないものを救う方法がすでにできていたことは誠に有難いことであるが、矛盾してしか生きていけない人間を救うためには真実の方が人間に一歩譲歩した姿でないとすべての人間が救われないように、心の構造がすでにそのように出来上がっているのだ。

神仏の救済の原理はあまたあるのだろうが、真実が現実に道を譲ってもらっている救いはここにしかないのであろう。否むしろ、こここそが人間救済の原点ではなかろうかと思われる。
これ以外の救いは人間が真実に向き合って生きて行ける方法はどこにもないのだろう。
 また、自分以外のものの犠牲に象徴されなくとも、一人の人間の救いの形態として人間自身の内部崩壊を経て心的再構成として人間自身の中て完結できる救いはほかにないのであろう。人間自身が持っている真実に対する矛盾している姿勢は、それを正当化しようとする無明の闇が破られて見えてくる世界だが、アミダと人間との間における、この悲しい真実の関係は到底人間一人では立ち向かえないのだと思うのです。
なんまんだぶつ
なんまんだ

煩悩主体が変わったよ

 今までは煩悩自我意識主体が私のご主人様だ
と思っていたが、信心得たらそれがあみだ様に変わったよ。
 変わったからと言って白から黒とか右と左と上と下というようにはっきりすぐに切り替われない変わらないのが凡夫の浅はかさ。
 主体が変わって煩悩自我意識もじっくりだんだんホントの主体と認め出す。
 そんな俺たちを切って捨てて帰る故郷ないものを見捨てるよなご主人様お殿様じゃないんだなと分かれば、やがてあみだ様を本当の親分と認め出す。それからいろいろ波乱はあるけれど
煩悩自我意識を迎えてくれる故郷があると分かれば一安心して暴れることが出来そうだ。
 これでホントに全身全霊信心決定心境安泰ナンマンダブツ出よかったな
なんまんだぶつ
なんまんだ

―わしらのあみだ様― 

 18願にはあみだ様のプラスマイナスが入ってる
 アミダさんがわしらが消せない煩悩を御認めになって悲しんで、それでも救わねば人間は何時までたっても救われないから真理のアミダさんの妥協の産物だけれども、真理のいたみなんだけど、それがなければ、それだけわしらにかまってくれなきゃわしらは地獄に行っても救われぬ。よくぞここまで降りて来てわしらをすくおうとなされたことか、わしらの方が謝らなけりゃ申しわけ絶たぬ。
 それ以外はみんなプラスのみ。わしらの努力意識の世界ではマイナスなんかしたならば一生人生の失敗になったりしたならば、そのマイナスさえ消しかねる。それをわしらのあみだ様自ら最初からマイナス背負って一歩極楽浄土から娑婆世界におみ足を踏み入れて、娑婆の泥水がぶってもわしらを救うの18誓願にびくともしないわしらだが、それでも一歩も引かぬその姿勢
その立ち姿にわしらはみんな心を真から撃たれて念仏者
ナンマンダブツ
ナンマンダ

宗教て大事だよね

 宗教って、どんな宗教でも人間が自分の心に生まれた時から持っている宗教心に目覚めた時に知る世界のことだと思います。宗教心はその人が人生の苦悩や矛盾や痛みなどのショックを通してのみ宗教心自身から外の苦悩の状況に応じて内発してくる。まるで卵が外部の熱に応じて内部から殻をつつくようなものだ。
 その働きに生きている人を僧侶と言い神父と言い僧職などというのでしょう。
だから、僧職でなくてもその社会的な立場のままで内心僧侶的な人も多くいるので、いま、各宗教によってその専門職が生まれたがいずれこれは、普遍的な人間の生得として宗教心とはかく要件としてあるべきものになってゆくものだと思うのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

―心のRQ―

知能指数のIQ
対人関係能力EQ
逆境指数AQ
があるとすれば
宗教指数RQ(Religion)もあるのだろう
 宗教的知性は人間の根源的な心のはたらきだとすれば、その他の知性Qと違い、より人間の日常生活の根本に近い位置にいるのであろう。 とすればより高い日常生活の知性の向上と逆方向のみに近いところからたらきだすものだ。
 むしろ、日常の知性生活が宗教的な意欲から働けば働くほど遠のくのに比べ、
その底が打ち破られたところでその底から働きだす根源的な人間の欲求意欲と出会うと言ってもいいはたらきであろう。
 日常生活の知性がより強く働く人がより宗教的でなくなるのはこの逆相対関係
の違いによるのではないのでしょうか。知性の高い法然聖人や高学歴になればなるほど科学者たちなどもこの関係に収まってくるのでしょうるしかしるでは知性が低ければ宗教的知性が高いのかというわけではなく、日常生活の活動に忙しく近い立場にいても逆に取り忘れていることもあります。
 この宗教的な理性と日常の知性との融合はどうもその境界を打ち破る突発的な非日常精神から、非合理的な精神が生まれて来た時に起こるような気がします。
高い知性の人はその限界に気が付いたとき、日常的な知性の人もその非日常生活に陥った時などです。
 どちらも大変なことが起きているのですが、より知性が高い人の方が今までの知性的経験が根源的宗教的な知性から遠ざかっていた分より精神的な苦悩がより増しているような気がします。かといって日常精神が低いからと言って根源宗教に近いからと言ってもこれも逆に日常生活が忙しすぎて宗教的な智瀬水にまでいかずに日常生活のおけるいわゆる現世宗教の御利益で子と澄ましてしまうは愛の方が多くなる可能性もあると思うのです。
 元々、宗教指数は誰においても平等に働くので、それぞれの精神的宗教的な環境からの影響も多いと思われます。科学者や医者であっても幼い時からの宗教的な情操教育を施された人は早くから無常非常の世界に目覚められより高い精神生活を送るために宗教に目を向けられる方も多いからです。

 RQ以外の知性能力はみんな逆向き、上昇思考だ。しかし、RQ指数から能力が増すと遠ざかるだけだ。有能になればなるほどその数は少なく範囲が狭まる。
RQ指数は仏の指数が下がるほど知性の幅が広くなる。
 これは仏の教えを大切にするからその人もよき人、大切な人になってゆくのだろう。RQの絶対評価が下がるほど仏の真実に近くなり、人間の判断基準となる相対評価を離れてゆく。仏の考えに近くなってゆくにつれて、自己評価が下がってゆく文真実評価が高くなってゆくという相関関係になってゆくのだ在る。
(縦線を知性能力、横線をRQ知性とし、それぞれゼロから45度で右肩上がりに上昇する直線)
という意味での「よき人」とはもっとも人間てきな人間なのだ。仏から与えられた線人格的な基礎が出来ているという人間を指すのである。人間の知性の能力評価となった時、人間の正しい評価も基本から見直さねばならなくなってくるの野ではないのでしょうか。
 下図の反比例図の0ポイントの原点のx線にふれるとRQ能力が発起する。y縦軸がRQ以外の知性。横軸xがRQ指数。例、yがRQ以外の知性能力が高くなるほどRQxは低くなる。y知性能力が低くなるほどx知性能力が発起に近くなる。
 y能力が0ポイントになった時、y能力を持ったままでx能力、RQ知性能力が両方とも生かされてくるのである。、

棄て果てて

お釈迦様は35才で救われた
あんなに頭がいい法然聖人が
43歳まで比叡のお山で救われぬ
親鸞聖人様は29才だ
聞いた話では5歳で救われた子も
居たそうだ
    
もっと頭のいい人がいたらもっと
年取ってから救われたのか
ひょっとしたら頭が良すぎてそのまま
死んでしまった人もいたのかもしれないな
    
年齢と救われた時期は違うのかもしれないが
仏縁のしからしむる計らいなのかもしれないが
こればかりは向こうからのおはからい
時機純熟におまかせなのか

子供は何の自分の計らいがないから
すぐに仏の声が響いたようだ
そのほかはなかなかなかなか
自分の努力意識が邪魔をして
アミダ様の努力意識を邪魔してばかり

頑張れば頑張るほどに遠ざかる
諦めればそれもまた遠ざかる
前にも後ろにも右にも左にも動けない
苦しいけれど善知識の一声か仏縁があるまで
絶体絶命で崖の上を一人歩き、砂を噛むよな生活を臥薪嘗胆して聴聞しかないのでしょう

砂を飲み込み、崖から落ちたら助かるかもしれないのに
今まで学んだ知識学問が、予備知識が身を縮こます
それらは一切いらないからと仏に何度言われても
それらを持って浄土に参りたいの心が邪魔をする
それらをあみだ様に捨ててもらわないと助からないよ
みんなみんな家族もその身も棄て果てて棄て果てて
ナンマンダブツ
ナンマンダ

蓮は汚い花にしか見えない

 卑湿の汚泥の中から蓮の花が咲く譬えがある。
 仏という花から見れば我々は泥以外の何物でもない。我々はそこしか知らないから、泥が美しいとしか見られないし、信じられないのである。
 そこからしか真実を観ようとしないのであるし、見るしかない意識の限界がある。
 だから、花が咲いて、仏の視点から、わが身の泥だらけの姿が初めて見えてくるのであって、それ以前の私が勝手に知っていたとか思っていた観念的な罪悪深重とか泥凡夫、悪人正機などという、こちらからは絶対に成り立たない視点に初めて気が付かされるのである。
 だから、本当に花が咲くときは、綺麗だけど、汚いという矛盾しながら仏と凡夫という矛盾する対立概念がわが身に一つとなって成立するのである。それがアミダの蓮の花が言葉になった南無阿弥陀仏なのだ

なんまんだぶつ
なんまんだ
 今まで自分が築いてきた人生の精神的な立脚地、簡単に言うところの自信などという、自分がいま安心して座っている座布団を自分の力では、必要がない時はひっくり返すことはいらないが、もし、それを極限にまで求めて行って、それ以上求めて、とうとう行き詰まってしまったとき、生きにくい今の苦しみから解放されたくて、仏に助けを求めたとき、一旦新しい価値観というか、今までの自分の人生観を根本からひっくり返してもらうことがないとその心は根本的には救われはしない。
 その苦の根本には、ああしよう、こうしたら助かるのかという自力意識があるから、まずそれをひっくり返してもらわなければ救われない。
 救われるきっかけは様々な全知識のおかげだが、その力と心はみんなアミダ様からでている。
 今まで生きて来たことが全て無駄だったと、今、自分が座っている人生のざぶとんをひっくり返してもらわないと、アミダ様との新しい歴史物語を生きているときに紡ぎ出すことはとうてい無理なのだ。
 ひっくり返してもらうまで、どこまでも頑張れよ、自力意識よ、どこまでも。あかんまんまでよかったと思えるまでがんばろう。
ナンマンダブツが見てござる。       ナンマンダブツ、ナンマンダ。

信じるならここまで信じる

 子供がお母さんに「僕、先に行っているからね、お母さんもきっと来てね」。と言って三日後に死んで行った。母親の口から死の直前にふと出た言葉「仏さまのところに行くんですよ」を信じた。体は辛くてもこの言葉を真剣に信じた一人の人間としての本当の安心感がある。生きている時の絶対的な自信が悲しんでいる母親のこれからの生き方さえ示唆しているではないか。しかも、そこには母親の愛情さえ包み込むような大きな仏の真の愛情があり、そこには本物の自由の世界に飛び立って行けるような、すべての束縛から解き放たれていく姿さえ想像できるのだ。
 触れた見たりすることはできないが、それ以上の内的実感を伴いながらも見えないが現実に充実している心を十分に満たすことができる世界がある。これを親鸞はお浄土の世界と言ったのだ。これを自ら信じ、人をして信ぜしむ「自身教人信」と言ったのである。
なんまんだぶつ
なんまんだ

磁石

 昔から、不思議なことに仏や神になろうとした人は、その罰を受けて地獄や煉獄などに落ちている。どうも人間は神や仏に近づけば近づくほど、遠ざかるほかない力が双方からか、一方からか知らないが働いているようだ。まるで、磁石のプラスとプラスのように強烈に反発して、決して一緒にはなれないようだ。
 どうしても、くっつこうとするなら、どちらかがマイナスになってしまえばいいのだ。神仏は絶対的なプラスなのだとすれば、我々の絶対プラスだと思っているプラスがいつまでも通じないのなら、神仏に我々の自分の力では到底、神仏になるという意識を持ちながら、なれないという我々の背中に抱えている全歴史的な罪業のマイナスをいやいやみせて、くっつくしかないのだ。
 神仏が我々を背中から抱きしめて離さないのだ。しっかり永遠に抱きしめられなければ、いやいや神仏のプラスにマイナスを引っ張られていくしか我々が神仏になる道は無いのだ。
生きているうちに一端後ろから抱きしめられれば、仏とはずっとくっついているから、外見は、救われているようで、すくわれていないようにしかみえないが、内面はもう離れない関係になって、離れようとしても神仏が異常な力で強力にくっついて離さないので、この世では二度と離れられなくなるのだ。
 そして、自分ではそれが自分のプラスだと思っていたことも、仏から見ればマイナスにしか過ぎないことを今、身をもって知らされるのである。
 根本から一回救われたらすべてが終わりではなく、この煩悩の身がある限り、ほとけ様は恒に現在進行形で救っていることを我々に自覚させ続けているのだ。
 そして、この身が終わる時には、残念だが、生きているときはどうしても逃れられない神仏に反する生き方をすてさせられて、嫌いなはずの神仏と一緒になって、神仏の見えない磁石のエネルギーの一部となる運命なのだ。
世間ではこれを救い、と言ったりするが、本来持っている自分の心に目覚めた人間になって自然に生きるという事だ。そこには私の求める自由も幸福もすべてがあるという事だ。
 生きている時にはこのアミダ仏の救済エネルギーがはたらき続けているのだ。それを親鸞は往相還相の二回向と言って、念仏する者は自らつくりだすエゴイズムの罪に苦しむときに、そのアミダエネルギーがはたらき出し、吸収し、元の静かな念仏者に戻してくれる働きをするのだ。それが、何度でも、何度でも生きているうちに繰り返される救いてあるから正像末和讃(48)「如来二種の回向の恩徳まことに有難し」と言っている。
なんまんだぶつ
なんまんだ
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