主観と客観の念仏

 空也上人の口から出ている六字の念仏像は歩く実践念仏の救われた姿だ。教典を読んだり聞いたりして長い時間をかけて終に一片の悟りさえ得られないより、今ある悩みをただ静かに念仏と共に歩くことによって悩みを口から掃き出し、心の解放感を、一気に獲得するための庶民念仏の実践の道であった。
念仏ひとつでいい。ただ念仏と言いながら、何年にもわたる教学を覚え込み卒業資格を得ねば信用されない教界の世界と違い、それは、もともと救われた人の集まりであったサンガを取り戻すための歩く実践念仏の完成した姿でもあった。
 簡単に心が解放されるはずの念仏がここまで堕落し、衰退した原因は、悩みのない人々が悩みのある人々の悩みを教学の中の言語に閉じ込め、さらにそれを複雑化することによって、さらに救われていない人々が暇つぶしをするためのより良い生活の道具になったからである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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