言葉仏

なぜ南無阿弥陀仏なのだろう
 アミダの言葉と心が一つになって我らに仏への自覚を促して無心と涅槃に到らしめんとの言葉仏の真実が私たちを仏の世界に目覚ましむ言葉が、この言葉に留まれば、それでも知性だけは十分に納得するが、もう一つのこの身このままの心全部が得心しないし、目覚めもないし、救われた実感もないまま年枯れる。
 最初から、言葉と心が一つになってアミダ仏が一つにして分けられないものと凡夫に手渡ししていたはずなのに、それを、賢しら凡夫がいらぬ浅智慧分別心を遠慮会釈なく勝手に自分の思慮分別に取り入れようと配慮して、慮って忖度、挙句の果てに一つのケーキ、心と言葉を切り分けたつもりで食べちゃった。
 だから、お腹の中でも二つがバラバラになって智慧と慈悲もばらばらになりました。そんな苦しみの中でそんな余裕の判断できぬ心の病の凡夫が丸ごとひとつ食べて救われた。
 もともと念仏一つ、信心一つがお腹の中で元の姿で生きてはたらき出して、これで少しはまともな人に成る。信心一つにつながってお口から二つが一つになって今日から智慧と慈悲のナンマンダブツとなって堂々とお出ましだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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