ブッダの悟りと親鸞の罪悪深重。

 親鸞の罪悪深重の凡夫とは我無しという仏教の諸法無我に通ずるところがある。

 それは罪悪深重を自覚認識する時、自己の我痴我執我慢の根本無明を自覚することは、知る我と知らせる仏との間に間接的でありながら直接的な接続関係が成立したという事であり、その精神的な俯瞰距離の客観的な状態からこの二対の両立関係を見ることにより、一時的にでもそこから距離を置くことが出来、相対的にでも絶対的にでも苦悩から救われたという事になる構造があるからである。

 それは真の無我に近づき縁起の理法を知ることになり、生死の苦悩を永遠に離れ、無我自在の精神科的な境地を誰でもが認識できるような精神構造がすでに人間には未完成のままで付与されていたという事があるからである。

 その根本にはあみだという真実一如の無我の精神的な時空が真如一実として与えられていたからである。

 これらの一実世界の人間と神仏との結実空間がそれぞれの自我意識空間に限定的に与えられていることにより、人間には自己の中に自由自在ともいうべき精神的な空間を持ってここに生きてゆく意味と目的に気が付くべき存在としてのこの心身が与えられていたという事になるからである。
なんまんだ。

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