「お浄土に生まれる」の「生まれる」という意味は何。
赤子が生まれる前は母胎で水生動物のように羊水の中で生きている。栄養は母胎から貰っている。この世に生まれてからは陸上動物に突然なって空気を吸い出して生きていく。
これと同じようなことで浄土に生まれると言う事は、俗世の様々な空気環境を吸っていたものが、浄土の信心を頂き突然、心が浄土の清らかな空気を吸い出し生まれ変わるようなものだ。それに従って身体もそれに次第に生まれ変わってゆく事だ。
体内で母胎の内側だけが全世界だと信じていた思考が突然、清らかな開けた世界に生まれ母親に任せていた視界が自分の目で見ることが出来るようになり、母親が感じた音響も、今度は自ら選択出来るようになることだ。
全く制限のない聴覚や視覚から真理の世界とその事実の自己世界を正しく認識してゆけるようになることだ。そして人間として一人立ちが出来るようになったと言う事が浄土に生まれ、こんな濁世を生きて行けるようになったということだ。
なんまんだ
なぜ無量寿に帰命しなければならないのか。
なぜ私はそうしたのか。親鸞は宗教的な課題にぶつかって結論として真の主体の回復手段として帰命せざるを得なかったのだ。
私の場合は身近な問題の解決が自己の能力の限界を超えていたので無量寿に頼らざるをえなかっただけだ。
私はわざわざ真理なんかを求めてなんかいなかった。下世話な課題を解決できればなんでもよかったが結論として、そういう心的環境と時代的な環境状況が身近な仏縁として偶々あったに過ぎない。
その結果、これも偶々だが親鸞の求めた真理の結論の場で出会っただけなのだ。
それはそれとして、それでは出会った無量寿のはたらきと、その世界の環境はどのようなものなのだろうか。
その世界に入ってみれば誰でもわかる事だが、無量寿の本願が公言していたように、そこはすべての命あるものの命の純粋性と平等性に満ち溢れた世界であり、その活動する範囲は時空を超越した活動領域になっていたのである。
それであるから私ごときものでもその時空の中にすでに泳がされていたから、自己が脱落した途端にその命の大地にふれて、無量寿の世界に生まれ得たのである。
いつの時代でもこの普遍的な命の平等な精神世界ともいうべき無量寿環境はそこに生まれたものにはすでに完全に救われる条件を備えていたのである。
なんまんだ
赤子に念仏しましょうと言えば素直にしてくれる。
大人になれば自我意識が強いからとても無理。
念仏は真理のはたらきであるから、人間共通の精神の基本的な活動意識となると思うので、誰でもすぐにその意識に目覚めて、その叡知と純粋愛情に動かされていくはずなのだ。
人間が意識的に獲得した知識や経験を真理のはたらきによって捨てさせてもらえば、真理の意識的な言葉である生きた真理の念仏のはたらきに目覚めて本当の自分や本当の真理の集合体のはたらきに誰でもいつでもいずれ出会えることになっている。
だけど仏様は無理を承知の願いを人間に建てたけど、今、本人が一番困っているのかもしれないな。
なんまんだ
みんな見えない糸でつながっている。
それを勝手に切ったり、つながったりできるものと思って生きている。
二度と戻らぬ糸もあるけれど、赤い愛情の糸とか、白い仏と繋がっている糸とかあるけれど、きっと、見えるような糸は見えない糸に導かれているんだろうと思います。
一つの見えない糸はほかの命の糸ともつながっていて、宇宙の果てまでいかなくても、どこまでもつながっているのだと思います。
一緒に一生懸命生きていれば、それを知らずに自分で選んだ糸だけ、今は大切にしているけれど、きっと、その糸電話にはたくさんの命の鼓動が響いて伝わっているのだろうと思います。
ブンブンキンキンオンオンガンガン今日も見えない糸は私の耳に宇宙の果てからいまも聞こえているのです。
なんまんだなんまんだぶつと聞こえてる。
なんまんだ
仏教説話に出てくる雪山童子の修行を助けた羅刹鬼とは何者なのか。物語では帝釈天の化身となってはいるが、一体、鬼が童子の求める真実への言葉を知っている意味は何であろうか。
羅刹鬼は悪の塊のような気がするが、その鬼の心を溶かすには我が身を捨てなければ真実の幸福への扉が開かれないような困難なものになっている。
二人が出遇ったと言う事の意味は、ひょっとしたら羅刹とは雪山童子の心そのものの姿なのかもしれない。なにかを求めたことのある人には理解できることかもしれないが、求めるものが崇高なものであればあるほど、得ることが困難になってくるものだ。
その困難を打ち破るものは、最後は今までの自分が勝ち得て来たものすべて捨ててしまうと言うところ、つまり、今まで経験して得た叡知や感動や知識の全てさえも、そして最後まで残っているこの身さえも棄てなければ得られないと言う事を意味しているのではないのだろうか。
この身を捨てて真の自己自身を見出すと言う、真の意味での自己犠牲である。
現代でもその宗教的な真理、究極の人間の生きる意味などというものは人間が、この世に生を受けた時からその姿勢が常に一人一人に求められていると言う事なのかもしれない。
そのような前提条件があって、そんな目の前に迫っている最後の難関、身がすくむほどの恐怖や危険を乗り越えなければ、何時の時代の人間の最終的な課題として、我々には真理というものが一生の間得られないようになっていることをこの物語は現している。
勿論、羅刹鬼は雪山童子の内的なものなのでしょうが、しかし、人間の歴史的に見てもこれは誰にでも起こりうる宗教的な求道の清らかな一風景なのです。
なんまんだ
許しても、許されていないと思っている人は許している人のこころは一生わからないままだ。
許されていると思えるのは、許している人の心を知って信じることしかないのだが、その信じる心の準備がないとそうはならない。一生相手を許さないし、結局自分も許せないまま心の牢屋に閉じこもったままになるのだろう。
許した人は自分が信じている憎しみの許さない心を仏さまに出会って許されていることを知って心の重荷がとけた人になるからだろう。
そして、愛することが相手を許すことになり、それによって自分自身が生きることをずっと許されていたことを知った時からなのだろう。
だから、同じ憎しみの土俵から降りることが出来た人になったときから許せる人になれるのだろう。
憎しみ続けている人もやはり、一度、その土俵から降りなければ笑顔になれないのだろう。
しかし、憎しみのままで自己を正当化としてゆくのが人間の業の歴史なのかもしれないが、その世界から誰でもが憎しみの連鎖から離れて平安を得ることが出来ることを知らせて来たのが宗教なのだろうけれども。
なんまんだぶつなんまんだ
あなたとの出会いの本当の意味とは何でしょうか。
あなたのどこと出会えば本当に出会ったと言うことが出来るのでしょうか。
ひょっとしたら、たとえ50年一緒にいても、いただけであれば、いただけになってしまうのではないのでしょうか。
それだけでも大切なことかもしれませんが。
しかし、本当の出会いとは出会ったらもうどのような別れでも、これでよかった、又、同じ世界で出会えるのだからという永遠の安心感をもった出会いにまでなっているのか、いないのかが出会ってからの本当の出会いの意味になってくるのではないのかと思うのです。
私はあなたに出会って、本当の出会いをしているかが分からなければ、本当の出会いをしている人と出会って知ることが大事な事だと思います。本当の出会いをしている人は、自分の足で探すしかありません。
なんまんだ
難しそうなことを言う人は、何を言いたいのか今も昔も私には勿論何も分からない。じゃあ、簡単なことを言う人のことは良く分かったのかと言えば、今はそうでもない。
難しいことを分かりやすく言える人は尊敬するが、やはりホントのことは難しい言葉で表現するしかないのじゃないのかなという事は少しわかってきたようだ。
だけど、多くのむずしいことは、そのまま、このまま何も知らずに終わってしまうんだろうなと思うようになったことは確かだな。
ただ、それを信ずることだけは誰でも出来るんだと思った。
ただの鵜呑みではなくて真実とはそれを全部理解しなくとも、そのヒトカケラでも我々にはもう十分なんではないのかと思うようになってきたからなんです。
残りはあっちに行ってからでもいいし、それ自身になってからでも充分間に合うんだろうなと最近思うようになってきたからなんです。
無知を許してください。それとも私はただ精神的に怠惰なだけなんでしょうか。
なんまんだ
日本には伝統技能者という職人が作る銘品は多数存在する。しかし、それを受け継ぐ人を育てることは洋の東西を問わず困難だ。後継者が育たなければ銘品の伝統も途絶えてしまう。
お念仏という銘品は有難いことに人の職種を問わず今日まで伝統しているからありがたい、こんな私にまで届いているのだからなおさらだ。しかも、あらゆる職種を超えて限定せず、年齢人種を超えて伝わるから有難い。
いつの時代でも、特殊技能を持たなくとも、時間もかからず、物事の根本が理解できるようになっているから、その職業の求めている本質的な方向までもが誰にでも理解できるようになっているから有難いのだ。
真実の念仏の体験という誰にでも起こりえる心の真実のはたらきを得た包丁づくりの名人は作業で使う言葉で真実の仏の世界を表現し、それが作品にも表れているからいい仕事がますますできるようになるのだろう。
念仏者もその道の名人にはなれなくても、たとえ短い人生であっても、それぞれが人生の名人になり、人生の名品という浄土建設を一人の大工として毎日作り続けていることになるのだろう。
なんまんだ
「生まれた時あなたは泣いていて、周りの人は笑っていた。だから、あなたが死ぬ時はあなたが笑って、みんなが泣いている。そんな人生を送りなさい。」
(ネイティブ・アメリカン・チェロキー族)という言葉がある。
もし、笑うのがプラス2になったなら、死ぬのはマイナス1だから、人生プラスマイナス1になる。
これでこそ生きた甲斐があると言うものだ。
そのプラス1は同じ意味になるのかもしれないが、真実とか、仏に出会ってよかったと言う喜びで、それがきっとプラス1になるのだと思うのです。
なんまんだ