いつかは仏に全てを返しましょうね。
アミダさんに救われた者は、言葉を変えると真理の道理や縁起の理法、ブッダと同じ悟りを得た者は、そこにとどまらずに、その答えを問として一生の間、得られた真理を深めて行く仕事が心に自然に沸き上がってくるようになっている。
自利利他とか自信教人信とかいう、人を愛し、許すとか、無罪の七施、和顔愛語、五戒を保つとかの一見ポジティブにみえる言葉に込められている根本にこれがないと本末転倒になってしまうのだろう。
所謂、菩提心とか、信心の根本に真理のはたらきがないと、綺麗ごとに聞こえるのはそのためである。正しい仏道を歩む根本にはこの仏の精神がなければいつでも手前味噌になって実践的に長続きや論理破綻を起こしてしまうのは、このためである。
例えば信心や悟りという宗教心が働いていればこそ初めて和顔愛語の困難さが分かり、逆に知らされながらもともに前に進むことが出来ることが出来ると言うものであろう。
一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、真理を持たずして真理の根本から出ているこの和顔愛語一つでもそれを実践すれば幸せになれるのだし語ることは誰でも容易にできるが、その実践を一生の間徹底できるかというと、当の本人でさえそれを知っているのである。しかもその味わいとなると一見努力次第で誰にでも実践可能のように見えるが本質的な困難さがあるため形式的な説教に終わるのはそのためである。
四諦八正道の実戦でも、いきなり因果の結果から始めても初めの原因を知っていなければ、いきなり二階にハシゴもなしに飛び上がってみる、というようなものである。二階に登るハシゴという因というか方法があって、はしごとは菩提心とか宗教心のことだが、これを持たずして二階で食事をしてみろ。悟ったり信心を獲たり世界を味わってみた結果を実践しろというようなものなのである。
二階にごちそうがあるが、その匂いを嗅いだだけでそれを食べたような気になって、美味いものがありますよと宣伝しているようなものなのである。食堂の前にある美味しそうな食品サンプルを見ただけで肝心の本人が食べたこともないのに美味いですよと喧伝しているのと一緒である。
だから、いつでも悟りや信心の本質の真理のはたらきを主体とするところに帰ってからが本物の仏道になるのであろうし、いつでも悟ってからの仏道こそが和顔愛語の実践になるのであろう。
そうでなければ、和顔愛語と言いながら日常では苦虫を潰したような顔になってしまうのである。
相対的で矛盾する根本的な自我意識を持ったまま、いつでも壊れゆく人間が普遍的な真理をいくら声高に叫んでも相対的な立場からは一歩も出られない我らには真理の上には永遠に立ち続けられないものなのであるからこそ、これを実践することは困難至極であるからこそ常にその根本に帰りながら一人一人がその道を歩むことが大切になってゆくのである。
それが自然に他者に伝わってゆく事が、自ら意識しなくとも笑顔が笑顔として自然に伝わってゆく事になるのであろう。真理は真理によって伝わると言う事だ。
しかも、和顔愛語の笑顔と愛語は仏様の笑顔と和語を本質とするのだから、仏さまが仏さまを目覚めさせ、仏様が仏様の微笑になってゆくと言う事なのだろう。
その純粋さが他人の命にも伝わり、広がってそれが本当の慈悲や智慧の実践となってくるのだろうと思うのです。
なんまんだ
自利利他とか自信教人信とかいう、人を愛し、許すとか、無罪の七施、和顔愛語、五戒を保つとかの一見ポジティブにみえる言葉に込められている根本にこれがないと本末転倒になってしまうのだろう。
所謂、菩提心とか、信心の根本に真理のはたらきがないと、綺麗ごとに聞こえるのはそのためである。正しい仏道を歩む根本にはこの仏の精神がなければいつでも手前味噌になって実践的に長続きや論理破綻を起こしてしまうのは、このためである。
例えば信心や悟りという宗教心が働いていればこそ初めて和顔愛語の困難さが分かり、逆に知らされながらもともに前に進むことが出来ることが出来ると言うものであろう。
一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、真理を持たずして真理の根本から出ているこの和顔愛語一つでもそれを実践すれば幸せになれるのだし語ることは誰でも容易にできるが、その実践を一生の間徹底できるかというと、当の本人でさえそれを知っているのである。しかもその味わいとなると一見努力次第で誰にでも実践可能のように見えるが本質的な困難さがあるため形式的な説教に終わるのはそのためである。
四諦八正道の実戦でも、いきなり因果の結果から始めても初めの原因を知っていなければ、いきなり二階にハシゴもなしに飛び上がってみる、というようなものである。二階に登るハシゴという因というか方法があって、はしごとは菩提心とか宗教心のことだが、これを持たずして二階で食事をしてみろ。悟ったり信心を獲たり世界を味わってみた結果を実践しろというようなものなのである。
二階にごちそうがあるが、その匂いを嗅いだだけでそれを食べたような気になって、美味いものがありますよと宣伝しているようなものなのである。食堂の前にある美味しそうな食品サンプルを見ただけで肝心の本人が食べたこともないのに美味いですよと喧伝しているのと一緒である。
だから、いつでも悟りや信心の本質の真理のはたらきを主体とするところに帰ってからが本物の仏道になるのであろうし、いつでも悟ってからの仏道こそが和顔愛語の実践になるのであろう。
そうでなければ、和顔愛語と言いながら日常では苦虫を潰したような顔になってしまうのである。
相対的で矛盾する根本的な自我意識を持ったまま、いつでも壊れゆく人間が普遍的な真理をいくら声高に叫んでも相対的な立場からは一歩も出られない我らには真理の上には永遠に立ち続けられないものなのであるからこそ、これを実践することは困難至極であるからこそ常にその根本に帰りながら一人一人がその道を歩むことが大切になってゆくのである。
それが自然に他者に伝わってゆく事が、自ら意識しなくとも笑顔が笑顔として自然に伝わってゆく事になるのであろう。真理は真理によって伝わると言う事だ。
しかも、和顔愛語の笑顔と愛語は仏様の笑顔と和語を本質とするのだから、仏さまが仏さまを目覚めさせ、仏様が仏様の微笑になってゆくと言う事なのだろう。
その純粋さが他人の命にも伝わり、広がってそれが本当の慈悲や智慧の実践となってくるのだろうと思うのです。
なんまんだ
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