摂取不捨は真理の躓き

 真実に背を向けて生きて行くことしか出来ない私をそのままで救われなければならない阿弥陀仏はすでに私の心の矛盾に対応して第十八願文にすでにその準備をしていた。
 一生、真実に背きながら生きて行かなければ生きていけないものの為に救われないものを救う方法がすでにできていたことは誠に有難いことであるが、矛盾してしか生きていけない人間を救うためには真実の方が人間に一歩譲歩した姿でないとすべての人間が救われないように、心の構造がすでにそのように出来上がっているのだ。

神仏の救済の原理はあまたあるのだろうが、真実が現実に道を譲ってもらっている救いはここにしかないのであろう。否むしろ、こここそが人間救済の原点ではなかろうかと思われる。
これ以外の救いは人間が真実に向き合って生きて行ける方法はどこにもないのだろう。
 また、自分以外のものの犠牲に象徴されなくとも、一人の人間の救いの形態として人間自身の内部崩壊を経て心的再構成として人間自身の中て完結できる救いはほかにないのであろう。人間自身が持っている真実に対する矛盾している姿勢は、それを正当化しようとする無明の闇が破られて見えてくる世界だが、アミダと人間との間における、この悲しい真実の関係は到底人間一人では立ち向かえないのだと思うのです。
なんまんだぶつ
なんまんだ

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