みな悟らるべし

 ブッダの出世本懐とは人間全体の出世本懐でもある。自ら覚り他を覚らしめんとすることである。大経における阿難がまさに、何十年とブッダが阿難に法を説いたが開けることが無かったが、いまこの時阿難自らが、自らの眼にブッタの智慧と慈悲をまのあたりにしたのは、自らの内からなる宗教心の初めての発露だったのだ。自らが覚ったからブッダの悟りに気が付いたのである。ここに、我々の救われ難き凡夫の身の姿があるが、これが我々の出世本懐でもあるのであろう。
 自信教人信と言う言葉の意味はまさにこのことであろう。独覚といえども、仏の大悲による教人信のはたらきによってはじめて、自らの真実の悟りを聞き開くことが出来るのであって、そこにこそ、仏々想念、肝胆相照、感応道交、念仏と念仏、宗教心と宗教心、法性と法性が響きあう内観世界が、そこに証明されたのである。ブッダの悟りも阿難の覚りによって阿難の本懐が証明され、さらに自らも深まって行ったのであろう。
 ブッダも救われ難き凡夫をアミダの大悲で救ったことによって、アミダの大悲の深き用を知ったが、大経のこの場面は、我々人間の出世本懐でもあり、いくら覚っても、人一人救うことが出来ないご縁であれば、それは自らの出世本懐の感性とはならないのではないのかと思うのです。

なんまんだ

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