先立つ我が子は善知識なり

 死んだ子供を死んで行ってもいいよと、この世から解き放って、親の手から仏様の子供になっていいよと許してあげることが出来なければ、それは親の一方的なエゴイズムなんだろう。
 なんでも俺の物だ、俺の物は俺の物だ、俺の妻だ、俺の子供だというような、結局、俺さえよければいいというエゴイズムは悲しいけれど一生消えないけれど、仏の純粋な愛情に目覚めたのなら、死ぬことを許してあげるという事になって行くのではなかろうか。広い世界に親が出なければならない課題がここにあると思うのです。つまり、人間の悲しさはここに在るのでしょう。
 このエゴイズムが捨てられないままに捨てさせていただく仏の道。すなわち亡くなった親や子供を赦し続けてゆく道。逆に許されてゆく道に変わってゆくという道が一番大事な道になってゆくのではないのであろうか。
 悲しみとの出会いによって、こんな道を歩むという事が、案外、悲しみと別れて行く、悲しみと共に自分が見えてくる世界に出会ってゆく事。自分の悲しみが分かることが、私自身が見えてくることになってゆく道。
 そんな潔い道を見つけてゆくことが出来るようになっているのではないのではないのでしょうか。
 この世でそれが出来なければ、あの世でも結局同じ事になるのかもしれません。凡夫の情として、あの世でまた会えるというような思いも大事なのかもしれません。

 なんまんだ

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