何かの話に集中しようとすると、逆に周りの音や、心の中の関係ないことが、突然気になってくる。
ブッダが、真理に到達しようとしたとき様々なものが妨害しようとしてきたことと程度の差はあれ同じことが起こっているのかもしれない。
一つの物ごとに集中しようとすると回りの危険なことにも注意を向けないと危険がいつ襲ってくるかもしれないと言う本能的な防衛本能のはたらきなのかもしれないな。
逆に、覚りや信心を頂くとき、こんな生得的な意識を超えて次元の違う世界を獲得するときには、それらを超えていくことが出来る能力も人間には備わっているのかもしれないな。
ブッダと我々の精神構造が、脳内構造が同じならば。それを仏と言い、神と言うのかもしれないな。
なんまんだ
正親含英師が母親には3つの姿があると言う。一つは戸籍上の母親。二つは生物学的、目に見える現身の母親。三つは言葉になった母と言う、存在しなくなっても現に言葉となってここに生きている永遠になった母という。
一つは仏教でいえば真実の世界にとどまっているアミダ仏の法身のすがた。
二つは応身という現身はお釈迦様や親鸞が言うアミダやその生まれ変わりの法然。
三つは報身(ほうしん)のアミダ。我々を救うためにこの世に姿かたちを現した阿弥陀仏が方便法身としての六字名号や絵像や称名念仏となったもの。言葉になった真実一如から我々のためにあらわれた具体的なあみだ仏。
永遠の母になったとは、永遠の私の母仏になったこと。
母なる属性を備えながらも、私の行く末をどこまでも心配し、同じ真理の世界に目覚めて真実の浄土世界に帰って、同じ尊い仏として出会える浄土世界に帰って、仏同士として出会う事を願っている母親となっている。
その母にもう一度出会えるには言葉にまでなっていつまでも呼びかけてくれている母なる阿弥陀仏の心であるお念仏を信じて生きて行くところに亡き母は仏であった、仏がははとなって私を育ててくれたと言うところに母親との本当の出会いがあり、そこにこそ本当の出会いがあり、供養もそこにあるのだと思うのです。
なんまんだ
私が足を動かす、自分の意思で動かすことが出来るのは随意筋。これはなにやら人間の分別智と繋がっているようだ。
心臓や内臓は不随意筋でこれはなにやら無分別智で自分の意思では勝手に動かせないし、働かせられないものだ。
自力意識も可動域は決まって、無明の闇だけは晴らせないことになっている。
他力意識の仏の無分別心はだけど、完全ではないけれど、随意筋でも動かしすぎると故障したりする。
そんな時、自らの意識と別れた時に初めて、随意筋と随意筋が突然仲良くなって稼働するように、自力もその限界を知った時こそ他力の世界の不思議な運命を持って働いていていることを知り、その時はじめて心の中に生きてはたらく如来が全ての人に生まれてくるのかもしれないな。
なんまんだ
宗教に洗脳されると言うが、脳に新しい洗剤、漂白剤、柔軟剤やらを入れて洗濯されて、今までの悩み苦しみが根本からなくなれば、新しい考えのもと新たな人生を歩めるようになるのだろう。
本物の宗教に洗脳されれば自利利他円満して慈悲と智慧が主体的に働き本物の自由が約束されるものだろう。
しかし、真理を我がものとする教祖の弟子と言う名の支配者が主体だと洗脳されれば自主的な行動は自ずと制限され主体性を失い人の奴隷になってゆくのだろう。
そうなれば、自らの智慧と慈悲の行為や言葉は失われてゆくばかりになるのだろう。
ご主人様のことや教祖の創った聖典の言葉を鵜呑みにして、支配的な立場を墨守する人間に成ってゆくのだろう。
真理に基づく真の宗教とは一人一人が独立者であるはずだが、往々にして集団はそんな独立者を疎み嫌い、人は人師を好むから話は余計に厄介になってゆくばかりだ。
なんまんだ
宗教心が人間の根本的な主体と言うものならば、宗教家に限らず鍛冶屋や魚屋やサラリーマン。スポーツマンや音楽家でも、その道の達人と言われる人たちは、仏教の専門語を全く知らなくとも自然に宗教心のはたらきに目覚めているのではあるまいか。
「お客さんに喜んでもらえるものを作りたい」「何年修行しても初心者だ」など。目覚めたあのどうしようもなく、全てを見渡せるような安堵の瞬間を経験しながら。
いまさら何宗ですと言わずとも、宗教の専門家以上に物事の道理を体得し自分の専門の言葉で、それ以上深い宗教世界の言葉や詩や音楽を、その世界で表現しているのだろう。
まるで大工の妙好人だ。魚屋妙好人だ。農家の妙好人だ。日本だけではないと思うけど、日本ではそんな精神的な土壌が特にこの道何十年と言う職人と言われている人たちに、今も大勢生まれていると私は信じているのです。
なんまんだ
あなたは自分だけは死なないといつのまにか心に深く思っているでしょう。
毎日を精一杯生きればいいんだと思っているんでしょう。それで、死んでどこへ行くかも誰にも聞かないんでしょうし、いつの間にか聞かなくてもいいと自分で深く信じているんでしょう。
いつの間にかこのままでいいんだと思っているんでしょう。
そこまで深く出来上がってしまっているですよ。
それが人生を根本から迷わせている悪魔の囁きを信じてしまっている証拠なんですよ。
最初っから自分の人生を信じているなんて人はどこにもいないはずなんですがねぇ。
なんまんだ
カレーの匂いを鼻で嗅ぐ。太陽の光を目で見る。言葉を耳で聞く。そうだろうか。
カレーの辛さは目にしみる。日光を全身で浴びると言う。最近では静寂さえ耳に聞こえているのではないと言う。
一つ一つの体の部分で見聞きしているのだろうか。
人間も植物も全身の能力をフル回転して物事に対処しているのではないのか。文字を読んで情景を心に浮かべる。
音楽で神の愛を感じたりする。
だから、人は頭のてっぺんから足の先まで全身で生を生き抜き、全身で死を死に切ってゆくものなのだろうと思った。
なんまんだ
ホームレスの人を見て可哀そうだと思う心が起こってくる。ビルゲイツの資産を聞いて驚く心がある。
ブッダの言葉を聞いて興味を引かれる心が起こる。私の心にいろいろな心が起こるが、今初めて起こってくる心ではなく、今、言ったようなことをすでに似たような経験してきた過去があったからではないかと思うときがある。
ブッダの言葉をいま懐かしく思う時、遠くブッダ在世の頃、ブッダの説法の坐にハエや蚊のような姿で近寄って聞いていたからではないかと思うときがある。
人は今この世に起こっている残酷な事や幸せなことも多かれ少なかれ、すべて経験してきたのではないかと思うときがある。
直接経験していなくても、間接的に見聞きしたことが私の心にも蓄えられて、命の共通遺産として遺伝子レベルに記憶されてきた。
そんな数々の人生や六道輪廻と言うような迷いを経た心の記憶を持ってきたいまだからこそ、二度とそのような道に戻らないために、今ここに阿弥陀仏の声を聞き、最終解脱の道に出会わせてもらったのかもしれないな。
だからこそ、どこまでも救いようのない我々のために、アミダの誓願一仏道は誰にでも開かれている最後の救いの道になっていたのかもしれないな。
それまで我々は、迷いの道をどこまでも歩むことをいつまでも許されているのかもしれないなと思います。
なんまんだ
故正親含英師が母親には戸籍・現身・言葉になった母親の三つの姿があり、特に言葉になった母親には全ての愛情が籠っていると。
子供から「お母さん」と呼ばれることで母親は子供から逆に信頼を得て母親に育ち、子供はその喜ぶ姿を見て立派な大人になっていくのかもしれません。母親が死んでも「お母さん」と呼ばれるところに現実の母親から永遠の母親に変わっていくのかもしれません。
同じではないけれど、アミダさんの戸籍は真如の世界に安住しておられる姿だが、苦悩の衆生を救うために仏像や絵像や文字になってこの世に現れてくるようになった。
母親の姿が見えなくなっても母親の言葉を呼べばあたかもそこにいるように。
我々もアミダを言葉の仏になった仏そのものと思い、その言葉に仏の愛情が、救いの心が全て籠っていると信じて声に出たところに、我々の苦悩からの安心が生まれ、救いもそこに完成してくるのであろう。
念仏も最初から私たちの口から出る言葉仏としてできていて、仏の心を聞いて信じたところに仏も救いを完成した姿として我々の前に言葉として表現してくるのであろう。
口から出る仏を仏と信じ、私の口から出ている声として生きて働く仏と対面している私を自覚しさえすれば、そこですでに仏も我々も共に救われているのであろう。
念仏申すことは、この世で正しい人間になることが出来るようになっている機構空間組織なのかもしれないし、本願念仏とは全ての人間にとって欠かせない心を安定化する根源的な必須アイテムかもしれません。
なんまんだ
同じ周波数をもった共鳴箱なら響きあうが周波数が少しでも違うと共鳴しないし振動が伝わらなくなる。
アミダさんの周波数と言う、生きて働く心が人間に響きあわなくなるときがある。アミダさんの波長に私の波長を出さなければ、自然にアミダさんと周波数が合って救われるようになっているはずなのだ。
私が出し続けている合わない波長を雑音といい、自力、努力意識、合わせようという、こんな無意識の抵抗も入っていると波長が合わない。
私の方がこれは無理だ、阿弥陀様に私の波長を合わせようとするのではなく、私の波長がカラになったとき、アミダさんの波長が私が身という共鳴箱に合って自然に入ってなんまんだぶつと共鳴して私の声になって自然にくるのだと思うのです。
なんまんだ