カラスの独り言

私は死なない

みんなが一斉に変化成長しているように見えるからいいような気もするけれど。

みんないつかは死んで行くからいいような気もするけれど。

誰か何か逆に若返って行くのを見たりしたならば、悔しい気もするけれど。

それでなくても、年下の人を見るたびに、もう俺には二度と帰ってこないものなのかと悔しい気もするけれど。

死は平等というけれど、最後はみんな死んで行くから何となく全部納得できるような気がしてくるな。

それでも俺だけは死なない、違うと思う心が死ぬまで消えないと思っている深い妄念妄想が痛ましすぎて悲しいな。

なんまんだ

人生の味は秋刀魚の味

 人生に意味はないと言うが、意味とは心の味わいと書くから、それだけで味のない人生だったと言う事になってしまう。

 人生の本当の味とは乾ききった砂漠で飲む冷たいオアシスの水のようなものなのかもしれない。

 当たり前のように生活していると何事にも慣れてしまって、一杯の水に感謝することもないようになる。

 ただ人生に本当に味のある水は宗教水と言うか、今までの人生で一度も飲んだことのない水だから飲んでみないと分からないようになっているから困ったものだ。

 だけど、こんなに人間の歴史が長いのだから、一度も飲んだことのない人でも心の遺伝子のどこかに刻まれているのかもしれないから、どこか懐かしい魂の故郷のような味がするのかもしれない。

 だから、意味を探して見つけた人には人生に意味があるが、ない人には永遠にないのだろう。

 秋刀魚を食べながら考えた。

我れ眼光紙背に徹せず

 正信偈の解説書を読んだり教行信証の歴代の講義本を読んだりして、教えの深さに驚く。

 でも、それらはほかの人の味わったものだな。それとは違う新しい見解が論文などで出てくる。それらをまた学んでいくうちに年を取ってしまう。

 それらはとても大切なことで、それがないと説得力がなくなってしまう。だけど、自分に信心と言う仏の眼を頂いたなら、例えば正信偈の「帰命無量壽如来」の無量とは何かを自分自身の頭で同じ言葉を繰り返し、時間を掛けて自分の言葉になるまで眼光紙背に徹し精読できるまでになったらいいなと思うだけの人生になってしまった。

 私に温故知新ももう無理になってしまった。

 なんまんだ

煩悩は神様です

 わが身を一生患わす煩悩とよき友として仲良く出来ないで否定ばかりしていては、悟りを開いても信心いただいても意味が薄いような気がします。

 これを全面的に認めるわけじゃないけれど、それらの煩いがあったからこそのものでしょう。

 悲しみながら、笑いながら傷みながら、わが友よ!と言って共に人生歩んで行けるようになるのが全人的な人間としての正しい生き方なんだと思うのです。

 私の体でありながら、私の心の一部でありながら私の人生を狂わすような煩悩でありながら、それをひていすることは私を全部否定することに成りはしないのでしょうか。

 それらも含めて、仏に許された罪悪であり、私のこころであり、魂であり、それを支えてくれている、仏に出会う存在の現場としての肉体であり、愚かな精神があったからではないのでしょうか。

 そんな私の心や体なのですから。仏を信ずればこそ、煩悩即菩提というような私のような貧しい恥ずかしいだけの生き方も可能になってくるのだと思います。

なんまんだ

煩悩は嫌いだ。

 煩悩や病気や悩みや苦しみを抑え戦い続けていくことは、それらを恐れ、それらに人生負けて行く事なのではないのか思うようになった。

 健康はいいけど病気は嫌だと言うのではなく、どちらにも何かの意味が私になにか気付けと言うご縁なんだな。

 それらに勝っても負けても、良くも悪くも友達のようなものなんじゃないのか。

 二つの間には勝ちも負けもないのだろうな。こんな言葉じゃなくて、もともと、そんなに勝ったり負けたりするものじゃなくて、たぶん自然の道理が、縁起がわが身に起こったと言うこと、その自然と言う仏の命の事実だけが私の心と体に残っただけなんだろうなと思うのです。

なんまんだ

置き忘れた罪

 死ぬことが怖いのではない。
生きていた時に作った無自覚の、或いは知っていて作った罪の報いをうける普段の心では自覚できない所を深い心で知っていて、そこへ行って、その報いを受けることが死ぬほど空恐ろしいからなのだ。
 
 宗教心は誰にでもある清らかな心だから平等に人の心も自身の心もいざとなったら全身に感じられてくるし見えなかった世界が見えてくるからなのでしょう。

 宗教とは大河の一滴のように命の海に帰り、又、雲になって別の命になるとか寄せては帰るうたかたと言うものではなくて、生きている時に現在や、はたまた私の命の過去世において仏に逆らいながら、真実の命に反逆してもなを生きようとして作った罪悪を、今生で償うことが無いならば、夢見心地に死んで行くだけなのだ。

 死は恐ろしくはない。などと言うのは人間の自我意識が考えた都合のいい表面的で心の不十分な満足に寄与する心から起こってくるもので、また同じ過ちを犯す人生を繰り返すから、決して心の底から救われたと言うような絶対安心した恐ろしくはない死にはならないのである。

 生きている時に真実を覚って自らの未来世と前世と現世の罪悪を知らされ、それを引き受けた罪滅ぼしと言うのは、最後の人間の人生にできるか、できないかの人生観というか、生死観を持っていなければ死ぬ間際だけを問題にするのであれば親鸞の言う臨終往生であり、完全に安心した完全な死ではなく、不完全な死になるのである。

 だから、生きている時に真実をアミダの本願によって知らされ現在往生といって、生きている時に宗教心に目覚め、信心に目覚め、真実に覚醒して死と現在の生の意味を知り共に受け入れて行ける真の人生に転換していなければ、完全な死を得たとは言えないのだろうと思うのです。

 生きている時に現在往生が出来ていれば肉体の生から死は一瞬の出来事であって、その中身は生も死もない仏の限りない命の中の変化の出来事であって、その命は仏になってナンマンダブツとなるだけの話なのだ。

 それまでは煩悩を拝めるような人間に生まれ変わり続けていけるような人間に成って行くことが大切なのではないのか。それが今の私にとっては一番大切なことになっているのであります。

なんまんだ

命の母

 アミダ様は十劫の昔に成仏しながら今に生きている菩薩様になりました。宇宙は137億年前にできたと言うなら、私のいまの命の素もきっと同じ時に命のつながりの中で生まれたのだろう。

 そして、私の命もその137憶年仏の命を持って今生きていて、私はわずか100年もないが生きるのだろう。だから二つの命は今の私に生きている。

 137億年の命はいま私の中で遺伝子のような形になって生きている。真実の命の願いを持って生きている、心として確かに私に生きている。

 宗教とは仏や神を信じるとは、そんな自分に刻まれた深い命の方が私に気付いてくれよと願っていて、こんなにも永くて深い真実と言われる真の心を信じて生きてくれよと願っているものが宗教なので、そんな心に私が気付いて生きて行くことが幸せの根本なのかもしれないな。

 そんな大きい母なる命の海から一人一人が生まれ、そして、帰って行くのが私の命の本当の運命かもしれないな。命の願いなのかもしれないな。

 私が思う命が母なる命の海に運ばれてゆくから、そんな大きな命の海の運命に帰ることが知れたなら、きっと私も命の海に安堵して、この消えゆく命を預けてもいいと言えるような人間になってゆけるのかもしれないな。

なんまんだ

みんなダイヤモンド仏なんだよな

 ブランドを身に着けると心が落ち着き、自分の価値を確認することができる。

 原始時代に人が持っていない槍とか剣を盗んで持っていると、実力がなくても心が落ち着くときがあったのかもしれない。

 ブランドは人が手掛けたものだらけだ。宝石も人が高度に磨いたものだ。

 仏さまの輝くような美しいダイヤより素晴らしい心は人が手を付けられない、仏さまが手ずから作ったものだ。それは何万年と輝いている天然の宝石のようだ。

 それらの輝きに救われた多くの人がその優れた宝石を褒め讃えてきた歴史がある。

 仏の宝石はれっきとした永遠のブランド品だ。これを身につければ、もう人の手に掛かったものには興味が湧かなくなることだろう。

 しかも、ただでみんなすでに持っていることを発掘し気が付くだけのようになっているから有難いのだ。

なんまんだ

我は魂を見るものなり。

 
 ブッダに思いをはせる。親鸞に祖師方、先祖方に思いをはせる。こちらから、時には向こうから夢の中や、ふとした時に写真や言葉や絵図が心に思いに浮かぶときがある。

 その時、私にブッダや親鸞の精神が生きていることを感じる。これをブッダや親鸞の精神と言う言葉ではなく昔は魂が来たと言った。私には感じられるのだ。

 見えてくるのだ。

 生きてくるのだ。

 お化けや幽霊と言うような漠然としたものではない。

 こんなにも判然とした魂とは純粋な精神になった仏であり、ブッダであり、親鸞なのだ。こんな具体的な出会いがあるだろうか。

 法蔵魂とはここの今の私を救い生かしている根本魂なのだ。

 ナンマンダブツはその魂の救済の具体的な姿なのだ。

 魂の明確な証拠とは正体とは、この私の身を通してのこれしか私には信じられないのだ。

なんまんだ

我が心を超えた神仏よ。我を救いたまえ。

 何かの話に集中しようとすると、逆に周りの音や、心の中の関係ないことが、突然気になってくる。

 ブッダが、真理に到達しようとしたとき様々なものが妨害しようとしてきたことと程度の差はあれ同じことが起こっているのかもしれない。

 一つの物ごとに集中しようとすると回りの危険なことにも注意を向けないと危険がいつ襲ってくるかもしれないと言う本能的な防衛本能のはたらきなのかもしれないな。
 
 逆に、覚りや信心を頂くとき、こんな生得的な意識を超えて次元の違う世界を獲得するときには、それらを超えていくことが出来る能力も人間には備わっているのかもしれないな。

 ブッダと我々の精神構造が、脳内構造が同じならば。それを仏と言い、神と言うのかもしれないな。

なんまんだ
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