カラスの独り言

二億五千万年のダイヤ

二億五千万年も埋没していた貴重な砥石が京都で取れるそうだ。

私が念仏しても今すぐには誰も振り向かなくとも、それを聞いている樹木や、虫や、大地や空気の振動などがわずかでも地球のどこかにかすかな痕跡を残してゆくのだろうと思った。

だから安心して、人のいない所で植物たちやカラスに念仏しても大丈夫なのだと思った。私を掘り出すのではなく、埋もれていても輝いているお念仏を掘り出してほしいのだ。

私以上に阿弥陀様はもっとすごくて、何十億年も私の魂が気付かずにいたのは、私が勝手に掘り出さずに埋めていたようなものだからだが、それでも、その中で息づいていて、念仏一つで命あるもの皆救うと本願を立てていて、それが私たちに生き生きとよみがえってくるのだからのだから、なおすごいのだ。
なんまんだ

二億五千万年のダイヤ

二億五千万年も埋没していた貴重な砥石が京都で取れるそうだ。

私が念仏しても今すぐには誰も振り向かなくとも、それを聞いている樹木や、虫や、大地や空気の振動などがわずかでも地球のどこかにかすかな痕跡を残してゆくのだろうと思った。

だから安心して、人のいない所で植物たちやカラスに念仏しても大丈夫なのだと思った。私を掘り出すのではなく、埋もれていても輝いているお念仏を掘り出してほしいのだ。

私以上に阿弥陀様はもっとすごくて、何十億年も私の魂が気付かずにいたのは、私が勝手に掘り出さずに埋めていたようなものだからだが、それでも、その中で息づいていて、念仏一つで命あるもの皆救うと本願を立てていて、それが私たちに生き生きとよみがえってくるのだからのだから、なおすごいのだ。
なんまんだ

念仏仇桜

 
 ブッダ様が四門出遊生老病死と喝破した人生苦。それは日本の春夏秋冬も似ているなと思います。人が春と生まれて。夏の盛り、秋に成熟実を落とす。実が雪の下で死んだように眠っている。

 毎日も朝昼晩と、なんか人間の一生を知らせているような気がします。もっと縮めると今のこのひと息が一生なのかもしれません。

 春夏秋冬栄枯盛衰諸行無常をこの身に感じながら、それに対処方法がないとは、いい歳こいて情けない。

 無常を感ずる体は黙っても痛い苦しいと言いながら滅びることを自然の摂理と受け入れているけれど80才になっても身も心も18才といつまでもわが心に思わせられる仇桜。

 この矛盾を解決してくれる大安心仏がナンマンダの自然節理の神仏の大王さまだ、あみだ様。なんまんだぶつと一遍申すだけ。

 それがそのまま信じて今は生きられるようになりました。それでも死んでくことには変わりませんが、お任せするように必死で抵抗しながら死んでまいります。すでに、この身今生に渡してナンマンダ仏ナンマンダ。

平凡な仏になる

浄土真宗はブッダと同じ立派な仏になるという平凡で自然な人間に成る道です。それまでブッダを偉大なる非凡人と言うならば、われらは偉大なる平凡人です。

しかしそれでよいという世界がみんなに開かれていると思うのです。偉大なブッダにならなくても、平凡な仏になれれば真理に生きる同じ心となるのです。

平凡とは非凡な道を歩んだものが得られる道ですが、それをあみだ仏が法蔵菩薩の段階で完成して、それを本願念仏として与えてみな仏にするとすでに我らに非凡な仏になる道をすでに開いて言葉の仏となって与えて下さっておられるのです。

 これで我ら平凡の者がみな非凡な仏になれる道が出来たのです。ひょっとしたら親鸞聖人は偉大なる平凡人の誕生をただの凡夫と昔から名乗っていたのかもしれません。

この道はすでに非凡な道を歩んでいたアミダの本願の名号を命として一人一人が歩む人間成仏への道でもあります。この道こそが、なんの取り柄もない平凡人にとって唯一の、いつでもどこでも誰でもが人間成就という非凡なる仏への感性が可能になる道になるという事です。
なんまんだ

なんまんだぶつだけが人生だ

 ブッダ様が四門出遊生老病死と喝破した人生苦。それは日本の春夏秋冬も似ているなと思います。人が春と生まれて。夏の盛り、秋に成熟実を落とす。実が雪の下で死んだように眠っている。
 毎日も朝昼晩と、なんか人間の一生を知らせているような気がします。もっと縮めると今のこのひと息が一生なのかもしれません。
 春夏秋冬栄枯盛衰諸行無常をこの身に感じながら、それに対処方法がないとは、いい歳こいて情けない。

 無常を感ずる体は黙っても痛い苦しいと言いながら滅びることを自然の摂理と受け入れているけれど80才になっても身も心も18才といつまでもわが心に思わせられる仇桜。

 この矛盾を解決してくれる大安心仏がナンマンダの自然節理の神仏の大王さまだ、あみだ様。なんまんだぶつと一遍申すだけ。それがそのまま信じて今は生きられるようになりました。

 それでも死んでくことには変わりませんが、お任せするように必死で抵抗しながら死んでまいります。すでに、この身今生に渡してナンマンダ仏ナンマンダ。

平凡な人間に成る

 浄土真宗はブッダと同じ立派な仏と言う自然で平凡な人間に成る道です。それまでブッダを偉大なる非凡人と言うならば、われらは偉大なる平凡人でもよい世界がみんなに開かれていると思うのです。
 偉大なブッダにならなくても、平凡な仏になれれば真理に生きる同じ心となるのです。
 平凡とは非凡な道を歩んだものが得られる道ですが、それを浄土真宗であみだ仏が法蔵菩薩の段階で完成して、それを本願念仏でみな仏にするとすでに我らに非凡な仏になる道をすでに開いて言葉の仏となって与えて下さっておられるのです。
 これで我ら平凡の者がみな非凡な仏になれる道が出来たのです。ひょっとしたら親鸞聖人は偉大なる平凡人の誕生をただの凡夫と昔から名乗っていたのかもしれません。
 この道はすでに非凡な道を歩んでいたアミダの本願の名号を命として一人一人が歩む人間成仏への道でもあります。この道こそが、なんの取り柄もない平凡人にとって唯一の、いつでもどこでも誰でもが人間成就という非凡なる仏への感性が可能になる道になるという事です。
なんまんだ

正しい仏教の伝え方

 私は説教が下手だ。第一その下準備が面倒臭い。だから私の話はとうとう誰も聞きに来なくなった。雪山童子の羅刹鬼が説教した後に取って食うというわけでもあるまいし。とは思うのだが私の心に満ち溢れている正しい仏の心を伝えることは近年困難になって来ていると特に身近にそう感じてきている。
 伝統的な年会法要の経を上げてくれと言う人はたまにはいるが。説教は極く短くしてくれ、と最初から注文してくるようになった。
 いかに身から出た錆とは申せ、いかな不精進の結果、自業自得とはいえ、悲しくも辛い僧侶物語になったものである。
しからばと心に思い浮かんだのは、そうだ、近くにたむろしているカラスにせめて念仏だけでも聞かせてやろうと一念発起入正定聚と思い立った。
 車で買い物に行く途中、クルミの固い殻を咥えてタイヤの重みで割らせて中身を食べているカラスが近所に何匹かいる。
それからは車の窓を開けて、カラスに念仏を仕掛ける日々が五年続いた。時には念仏を威嚇行為と勘違いしたカラスが私の車を追跡してきてフンを車の上に落としていたこともあった。それでも念仏効果は未だ成果が見えてはいなが、いずれ人間に近いカラスの一匹でも「なんまんだ」の一言でも叫んでくれれば、カラス同士の仲間意識は強いらしいから、それが慣習から伝統にでもなれば、「繋の念仏カラス」という地場産業ならぬ念仏カラスという観光名所にでもなれば私としても一つの地域貢献になると思ったからである。そこからカラス饅頭でもできればひとつの地場産業にもなるのである。
 それはすぐには効果が見られないので、それを将来の楽しみに残しておいて、今すぐできることは布教の対象を動かない植物にも広めて念仏を勧めるようにすることだと思った。
きっかけは妙好人の源右老人が知り合いの家に招かれていったときには、必ず犬や庭の老木達を撫でさすりながら「しばらくじゃのう、元気でいたかのう」と挨拶をしていたことを参考にしようと思ったからです。
 人間や烏のように動き回るものも念仏の対象だが、植物のようにただじっとしている植物は地球上の大陸のほぼ80%を占めているという。そして最近の研究では嘘か誠か、植物にも周りの物音を聞く耳のような働きがあるという。耳があるならきっと人間とは違う形をした目もあり口もあるのだろうと思った。
 ひょっとしたらアフリカの蝶が羽ばたけばアメリカに台風が起こるというバタフライエフェクト効果があり、ここで植物たちに念仏を叫んでいれば、いずれ遠いアマゾンの密林の植物たちにも届き、いずれ外国からくるものに弱い日本に念仏の声が返ってくるかもしれないと思ったからなのです。
 それからは裏山の樹木たちの様子を見ながら「なんまんだなんまんだ」と呼びかけるようにしている。「お前たちにも目や耳や口もあるから、きっと私の念仏の呼び声が聞こえるはずだ。なんまんだ」と呼びかけるようにしている。
 いずれカラスが「ナンマンダかぁー」木々たちがこぞって「ざわざわざわざわナンマンダ―」と言う雄叫びがこの繋地区一体に轟き渡る日が来ることを信じている昨今である。
なんまんだ

まごころの興り

 宗教心そのものが常に外縁的でありながら根本的な内因的な存在でもある。

 また、常に外縁の間接条件の充足を待っている存在なのでもあるから人間的な外的修行の行為ととらえるではなく、あくまでもそれはどこまでも外的刺激ではあっても間接的な刺激にとどまるものであって、直接的な発生は内なる発生条件が整ってから、内的な根本的な仏的因縁の円熟を待たねばならない。

 内なる円熟に最終的な決定権があり、それを待たねば外縁と内因は和合しないので、その発現は永遠に不可能に近くなる。不思議な因縁と言う宇宙全体の和合調和と言うものまでがそこにはたらいているのかもしれない。あるいは、諸仏の了解とでもいうものがそこにあるかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

自力と他力の数学的考察

 
自力とは自分の智慧才覚の力をもって、自力の伝統的な教えのもと、修行して仏にむかって積み立て努力する。スタートの「0」地点からまず目標の「1」という出発からゴールまで進む「0」+「1」=1の道程なんだ。
最初の「「1」に到達しないと「0」のままで終わってしまう自力の道なんだ。もともとの、この「0」がないと成立しない「1」なんだ。だから自力とは1+0のコンピューターの世界のようだ。

 他力とは「0」×「1」=0になるんだ。蓄えようとする努力意識の実数が全部元の木阿弥の「0」になって消滅してしまう世界に気が付く事なんだ。
 
 他力とは量子コンピュータのように1か0か、蓋を開けるのでは分からないというような世界かもしれないな。

 結局、他力とはこの究極のすべての数字を支えている仏の絶対無限の満足世界の無分別心というアミダのなんでも0にする究極の満足世界のたらきに全てを任せるという世界なのかもしれないな。

 それに人間の分別心でいろいろなことをもう何も付け加えなくてもいい世界がすでにみんなに平等に与えられていたという事に気付けという事なのかもしれないな。
 ゴールがスタートでスタートがゴールという、気が付けば、真理の扉を開けばそこに私の答えが与えられている仏の世界他力の世界がそんなものなのかもしれないな。

なんまんだぶつ
なんまんだ
 アミダの本願が私に完成したら有情の命の全てが救われることが同じと証明されたことになる。全ての命を救うと言って私が救われたら、その願がやがて完成することが私一人で証明されたことに成る。
 すごい事だ、なんまんだぶつの威力や恐るべし。敬うべし尊ぶべし。これは言葉や哲学や音楽やあらゆる仕事の基礎になるのだろう。全ての自分自身の基礎になるんだから。
 かたちをこえて生きたナンマンダブツの使命をそれぞれが誓った世界で、その使命が自然に果たされてゆく事になるのだろう。これが本当に生きて作用してくる現在進行形の平和の国から呼びかけてくる本物の世界平和の礎なのだろう。

なんまんだ
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