置き忘れた罪

 死ぬことが怖いのではない。
生きていた時に作った無自覚の、或いは知っていて作った罪の報いをうける普段の心では自覚できない所を深い心で知っていて、そこへ行って、その報いを受けることが死ぬほど空恐ろしいからなのだ。
 
 宗教心は誰にでもある清らかな心だから平等に人の心も自身の心もいざとなったら全身に感じられてくるし見えなかった世界が見えてくるからなのでしょう。

 宗教とは大河の一滴のように命の海に帰り、又、雲になって別の命になるとか寄せては帰るうたかたと言うものではなくて、生きている時に現在や、はたまた私の命の過去世において仏に逆らいながら、真実の命に反逆してもなを生きようとして作った罪悪を、今生で償うことが無いならば、夢見心地に死んで行くだけなのだ。

 死は恐ろしくはない。などと言うのは人間の自我意識が考えた都合のいい表面的で心の不十分な満足に寄与する心から起こってくるもので、また同じ過ちを犯す人生を繰り返すから、決して心の底から救われたと言うような絶対安心した恐ろしくはない死にはならないのである。

 生きている時に真実を覚って自らの未来世と前世と現世の罪悪を知らされ、それを引き受けた罪滅ぼしと言うのは、最後の人間の人生にできるか、できないかの人生観というか、生死観を持っていなければ死ぬ間際だけを問題にするのであれば親鸞の言う臨終往生であり、完全に安心した完全な死ではなく、不完全な死になるのである。

 だから、生きている時に真実をアミダの本願によって知らされ現在往生といって、生きている時に宗教心に目覚め、信心に目覚め、真実に覚醒して死と現在の生の意味を知り共に受け入れて行ける真の人生に転換していなければ、完全な死を得たとは言えないのだろうと思うのです。

 生きている時に現在往生が出来ていれば肉体の生から死は一瞬の出来事であって、その中身は生も死もない仏の限りない命の中の変化の出来事であって、その命は仏になってナンマンダブツとなるだけの話なのだ。

 それまでは煩悩を拝めるような人間に生まれ変わり続けていけるような人間に成って行くことが大切なのではないのか。それが今の私にとっては一番大切なことになっているのであります。

なんまんだ

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