カラスの独り言

みんな真理の善人になるんだな

 この世の苦を逃れるために覚りや信心を求め始める。純粋真理100%から見たら、真理は真理によって純粋100%人間に与えられるものなのに、それを自の努力意識で手に入ると100%努力してゆく事は、それ自体が真理に対する反逆で真理から見たら真の悪人だが、真実の真理を知らない人間意識から見れば美しく見える努力の理想像だ。
 しかし、真理に対する冒涜にすぎない純粋な悪人になる。しかし、その壁が真理によって打ち破られれば、真理のはたらきに従って生きることが出来る善人になる。しかし、100%純粋意識にはなれないので、真理の善人のままで、真理の悪人になるのである。
 これが、人間が真理と共に救われゆくすがた、矛盾したまま救われてゆく究極の悪人でありつつ安寧の人が即ち道になるのである。

なんまんだ

輝き続ける0の世界

 1×0=0。この真実一如のなかに1も2も平等に収まってしまうのが0の世界。

 0は真実一如であり、「1」は一人の人とか存在するもの全てが「×」という、飛び込む、吸い込まれる、一つに成る。カオスになる。など、1が1のままで姿は見えなくなるが、いつでも「1」として安定して、安心して「0」のなかで生き生きと存在することが出来る世界でもある。

 もともと、「1」は「0」から生み出され「0」に帰ってゆく存在として仮にこの世に生まれて「1」という数や物事の始まりを現すが、そのためには根源的な「0」があって、その始まりが成立するのであろう。それは第一の母なる存在でもろう。

 仏教でいう「0」は真実一如であり、「1」はすべての存在を指すのだと思うのです。0が1になり1が0になる。

 きっと、この繰り返しながら真理を磨く永遠普遍の命の中に人間が生きているんだな。

なんまんだ

自力と他力の数学的考察

 自力とは自分の智慧才覚の力をもって、自力の伝統的な教えのもと、修行して仏にむかって積み立て努力する。スタートの「0」地点からまず目標の「1」という出発からゴールまで進む「0」+「1」=1の道程なんだ。
最初の「「1」に到達しないと「0」のままで終わってしまう自力の道なんだ。もともとの、この「0」がないと成立しない「1」なんだ。
 他力とは「0」×「1」=0になるんだ。蓄えようとする努力意識の実数が全部元の木阿弥の「0」になって消滅してしまう世界に気が付く事なんだ。
 自力とは1+0のコンピューターの世界のようだ。
他力とは量子コンピュータのように1か0か、蓋を開けるのでは分からないというような世界かもしれないな。
 結局、他力とはこの究極のすべての数字を支えている仏の絶対無限の満足世界の無分別心というアミダのなんでも0にする究極の満足世界のたらきに全てを任せるという世界なのかもしれないな。
 それに人間の分別心でいろいろなことをもう何も付け加えなくてもいい世界がすでにみんなに平等に与えられていたという事に気付けという事なのかもしれないな。
 ゴールがスタートでスタートがゴールという、気が付けば、真理の扉を開けばそこに私の答えが与えられている仏の世界他力の世界がそんなものなのかもしれないな。
なんまんだ

言葉にならないからみんなに伝わるんだな。いいんだな。

真実一如のアミダ様。如来の声にならない如来の声、言葉にならない如来の言葉、文字にならない如来の文字。声以前の如来の声。言葉以前の如来の言葉。文字以前の如来の文字。

見えない光や聞こえない声は人には捕まえにくい。見える光や音はまっすぐ広く進む性質だ。見えない光は私たちの心の無明の闇(末那識)に当たって開けた時の私の自覚が後で言葉にならない言葉であると言いながら、渋々なむあみだぶつという真実一如のはたらく心と一つになったとき、突然血の通った私のナンマンダブツとなっていったのだと思います。

そんな感動と自覚が無量無限の光と寿のはたらきであったと後で言葉と結びついたものなのだろう。

そんな見えない光と聞こえない声が無量の命あるものを本願の根源に呼び返す、そんな力が吾らの根源の主体になって来たのでありましょう。

なんまんだぶちなんまんだ

長い目

 仏さまの目から見れば害虫や罪悪深重の人間なんてもともといないのでしょう。ただし、いくら言っても真理のはたらきに従えない人間がいるだけなのでしょう。 
 逆らってしか生きて行けない、目覚めても目覚めたことにならない生き方しかできない人間だと見限っておられるから本願を建てられたのでしょう。
 救われないままに救われてゆく事しか出来ない徹底的な絶対矛盾したこの自覚を持って生きてゆく事で人は本当に真理に生きて行くことが出来る存在として生きて行くことが許されているのだと思うのです。
 いずれ仏にはしてあげるが、今は救われぬままで未来に救われる現在をしっかり生きていってほしいというのが唯除の願であり、あみだ様の本願の御はたらきであり、私たちの存在の本当の生きる意義と喜びがそこにこそ許されてあるのだと思うのです。

静かな森

静かな森の中はまるで仏の世界だな。何も不自然なものはなく、無駄なゴミと言うものさえ一つも落ちていない調和している世界だな。
人はゴミを出すけど森はゴミ一つ出さないな。そんな中で絶対深呼吸を続けたらきっと立派な仏になれるかもしれないな。
 人間が作り出す煩悩社会と仏社会の違いはゴミが出るかでないかの違いなのかもしれないな。
森が森のままで仏かもしれないな。
 森はそのままで自然に完全リサイクルされる浄土世界なのかもしれないな。
仏とはゴミと言われる人間までも完全リサイクルできる機能を備えた最高のリサイクル工場かもしれないな。
そんなことが出来る国家レベルの国土を持った工場地帯をお浄土と言うのかもしれないな。

なんまんだ
静かな森の中はまるで仏の世界だな。何も不自然なものはなく、無駄なゴミと言うものさえ一つも落ちていない調和している世界だな。
人はゴミを出すけど森はゴミ一つ出さないな。そんな中で絶対深呼吸を続けたらきっと立派な仏になれるかもしれないな。
 人間が作り出す煩悩社会と仏社会の違いはゴミが出るかでないかの違いなのかもしれないな。
森が森のままで仏かもしれないな。
 森はそのままで自然に完全リサイクルされる浄土世界なのかもしれないな。
仏とはゴミと言われる人間までも完全リサイクルできる機能を備えた最高のリサイクル工場かもしれないな。
そんなことが出来る国家レベルの国土を持った工場地帯をお浄土と言うのかもしれないな。

なんまんだ

ゴミの喜び

 ゴミが念仏に会った途端にゴミと言う名前からその本質に戻って本来の命があった時を思い出し輝き出すようになったんだ。

どうにも始末に負えないゴミがゴミとして本来の面目躍如とばかりに輝きを増す時が来たんだな。

 ゴミの存在が、ゴミとしての本来の居場所にかえって本来の生き生きとしていた時を思い出しただけなんだ。
 それをゴミがゴミになったという事だ。
 仏にさえ承認されたゴミ仏にやっとなれた時がいま来たんだな。
 ゴミが運命と悟ったときなんだ。
 ゴミが自分の運命を喜んで引き受けた時が来たんだな。

 ゴミがゴミでよかったと自分の運命を引き受けて本当のゴミになったんだ。
 ゴミが立派にゴミ仏として今しっかり立派に成仏したんだな。今、ゴミが喜んで泣いている。

なんまんだ

本願力

本願力とは諸仏が真の仏になってほしいという願いのこもった成仏力なのだ。仏の世界に生まれて真実の意味を知ってそこに生きてほしいという事なのだ。
 本願力とは宗教的能動態がはたらき出す時、つまり、宗教的な信心に目覚めるとき。即ち、宗教心がその人に初めて、はたらき出した時の作用が全身に衝動を与えたとき、宗教心がその人に初めて目覚めると機の衝撃のはたらきが弥陀の呼び声と言う初本願の活動する音が弥陀の呼び声というものである。「本願力」の「力」が我らとの唯一の接点である。それが聞名と言う事の始まりである。
 それを呼び声を聞く、聞いた、または発起した、宗教心に始めて目覚めた、真理の叫びに出会ったという事である。

光力

 本願の勅命とは真実からの見えないが実存する真理への吸引力パワ−。ブラックホールに少しでも引っかかったら、光でさえも吸い込まれてゆくというような力、エネルギーを親鸞は光と言い道と言い、信といい、使いと言い、よりかかりより頼むを帰命とした。
 こちらの力では決してあらがえない、一方的な本願と言う真実への真っ逆さまに落ちていく。それに対して逆噴射して一生涯をかけて逃げてゆこうとするわれらを「帰命」真実の命、招き引く。
 この世に生まれてくるときも真実に逆らい後ろ向きでこの世に出てきたものが、今度もまた、後ろ向きで反逆したてまつって帰ってゆく姿。その心理の命から招かれた、招き引くパワーとして意味づけようとした。
 これは正しい理論や人間の小さな知性で理解できる世界や出来事ではなく、あくまでも宗教的な非論理的な
不合理的な正しい心理の働きの道理に心理に基づいた真に正しく厳密な宗教的な表現なのである。

なんまんだ
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