まごころの興り
宗教心そのものが常に外縁的でありながら根本的な内因的な存在でもある。
また、常に外縁の間接条件の充足を待っている存在なのでもあるから人間的な外的修行の行為ととらえるではなく、あくまでもそれはどこまでも外的刺激ではあっても間接的な刺激にとどまるものであって、直接的な発生は内なる発生条件が整ってから、内的な根本的な仏的因縁の円熟を待たねばならない。
内なる円熟に最終的な決定権があり、それを待たねば外縁と内因は和合しないので、その発現は永遠に不可能に近くなる。不思議な因縁と言う宇宙全体の和合調和と言うものまでがそこにはたらいているのかもしれない。あるいは、諸仏の了解とでもいうものがそこにあるかもしれません。
なんまんだぶつ
なんまんだ
また、常に外縁の間接条件の充足を待っている存在なのでもあるから人間的な外的修行の行為ととらえるではなく、あくまでもそれはどこまでも外的刺激ではあっても間接的な刺激にとどまるものであって、直接的な発生は内なる発生条件が整ってから、内的な根本的な仏的因縁の円熟を待たねばならない。
内なる円熟に最終的な決定権があり、それを待たねば外縁と内因は和合しないので、その発現は永遠に不可能に近くなる。不思議な因縁と言う宇宙全体の和合調和と言うものまでがそこにはたらいているのかもしれない。あるいは、諸仏の了解とでもいうものがそこにあるかもしれません。
なんまんだぶつ
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