正しい仏教の伝え方

 私は説教が下手だ。第一その下準備が面倒臭い。だから私の話はとうとう誰も聞きに来なくなった。雪山童子の羅刹鬼が説教した後に取って食うというわけでもあるまいし。とは思うのだが私の心に満ち溢れている正しい仏の心を伝えることは近年困難になって来ていると特に身近にそう感じてきている。
 伝統的な年会法要の経を上げてくれと言う人はたまにはいるが。説教は極く短くしてくれ、と最初から注文してくるようになった。
 いかに身から出た錆とは申せ、いかな不精進の結果、自業自得とはいえ、悲しくも辛い僧侶物語になったものである。
しからばと心に思い浮かんだのは、そうだ、近くにたむろしているカラスにせめて念仏だけでも聞かせてやろうと一念発起入正定聚と思い立った。
 車で買い物に行く途中、クルミの固い殻を咥えてタイヤの重みで割らせて中身を食べているカラスが近所に何匹かいる。
それからは車の窓を開けて、カラスに念仏を仕掛ける日々が五年続いた。時には念仏を威嚇行為と勘違いしたカラスが私の車を追跡してきてフンを車の上に落としていたこともあった。それでも念仏効果は未だ成果が見えてはいなが、いずれ人間に近いカラスの一匹でも「なんまんだ」の一言でも叫んでくれれば、カラス同士の仲間意識は強いらしいから、それが慣習から伝統にでもなれば、「繋の念仏カラス」という地場産業ならぬ念仏カラスという観光名所にでもなれば私としても一つの地域貢献になると思ったからである。そこからカラス饅頭でもできればひとつの地場産業にもなるのである。
 それはすぐには効果が見られないので、それを将来の楽しみに残しておいて、今すぐできることは布教の対象を動かない植物にも広めて念仏を勧めるようにすることだと思った。
きっかけは妙好人の源右老人が知り合いの家に招かれていったときには、必ず犬や庭の老木達を撫でさすりながら「しばらくじゃのう、元気でいたかのう」と挨拶をしていたことを参考にしようと思ったからです。
 人間や烏のように動き回るものも念仏の対象だが、植物のようにただじっとしている植物は地球上の大陸のほぼ80%を占めているという。そして最近の研究では嘘か誠か、植物にも周りの物音を聞く耳のような働きがあるという。耳があるならきっと人間とは違う形をした目もあり口もあるのだろうと思った。
 ひょっとしたらアフリカの蝶が羽ばたけばアメリカに台風が起こるというバタフライエフェクト効果があり、ここで植物たちに念仏を叫んでいれば、いずれ遠いアマゾンの密林の植物たちにも届き、いずれ外国からくるものに弱い日本に念仏の声が返ってくるかもしれないと思ったからなのです。
 それからは裏山の樹木たちの様子を見ながら「なんまんだなんまんだ」と呼びかけるようにしている。「お前たちにも目や耳や口もあるから、きっと私の念仏の呼び声が聞こえるはずだ。なんまんだ」と呼びかけるようにしている。
 いずれカラスが「ナンマンダかぁー」木々たちがこぞって「ざわざわざわざわナンマンダ―」と言う雄叫びがこの繋地区一体に轟き渡る日が来ることを信じている昨今である。
なんまんだ

name
email
url
comment

NEW ENTRIES
闇は光の友達だ。いつも一緒で仲がいい。(05.07)
心は浄土空間さえも駆け巡る。(05.04)
ゼロ愛なんだこの自分。(05.04)
矛盾な人間だ。(05.03)
ホカホカだよ、おっかさん。(05.02)
月が浮かぶ。(04.28)
私の誕生日。(04.27)
命の目覚め。(04.23)
死後まで守ってくれる人。(03.25)
石に聞く。(03.21)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS