鬼が来りて笛を吹く

 仏教説話に出てくる雪山童子の修行を助けた羅刹鬼とは何者なのか。物語では帝釈天の化身となってはいるが、一体、鬼が童子の求める真実への言葉を知っている意味は何であろうか。

 羅刹鬼は悪の塊のような気がするが、その鬼の心を溶かすには我が身を捨てなければ真実の幸福への扉が開かれないような困難なものになっている。

 二人が出遇ったと言う事の意味は、ひょっとしたら羅刹とは雪山童子の心そのものの姿なのかもしれない。なにかを求めたことのある人には理解できることかもしれないが、求めるものが崇高なものであればあるほど、得ることが困難になってくるものだ。

 その困難を打ち破るものは、最後は今までの自分が勝ち得て来たものすべて捨ててしまうと言うところ、つまり、今まで経験して得た叡知や感動や知識の全てさえも、そして最後まで残っているこの身さえも棄てなければ得られないと言う事を意味しているのではないのだろうか。

 この身を捨てて真の自己自身を見出すと言う、真の意味での自己犠牲である。
現代でもその宗教的な真理、究極の人間の生きる意味などというものは人間が、この世に生を受けた時からその姿勢が常に一人一人に求められていると言う事なのかもしれない。

 そのような前提条件があって、そんな目の前に迫っている最後の難関、身がすくむほどの恐怖や危険を乗り越えなければ、何時の時代の人間の最終的な課題として、我々には真理というものが一生の間得られないようになっていることをこの物語は現している。

 勿論、羅刹鬼は雪山童子の内的なものなのでしょうが、しかし、人間の歴史的に見てもこれは誰にでも起こりうる宗教的な求道の清らかな一風景なのです。

なんまんだ

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