カラスの独り言

仏がここに現れたいときに。

 なぜ阿弥陀仏は念仏となって私の口から現れ出たのか。我らの要求があったからというが。

 本来、元々人間の一つの心のかたちとして備わっていたまごころとか宗教心とか仏心といわれていたものなのではなかったのか。

 それは、それを必要とする人に対して現れて来ただけで何ら特別な一人の宗教者と言われている人々達の独占品ではなく誰にでも、どこにでもあるすべての命に生来備わっていたものではなかったのか。

 それが、いざ危急存亡の時に出現しただけで何人にも、その時が来ればその本来の命に目覚め、死さえも乗り越えて行ける清浄な意欲の力となっていたのではないのかと思うのです。

 本来、人間や命あるものの根底に秘められていた人間のこの真の命に目覚めること、覚る事、信心を獲ることに現世の死を超えた働きがあることを見ても、来世への真実の生の世界につながる生をここで得ることによって、それは理解できることになるのではないかと思うのです。

 なんまんだ

まじで。

 
まじで、いままで実に多くの人に多くの迷惑をかけちまったが、仏法的に見たらこんな俺にとってはいい人生だったと言えるかもしれないな。

 その一番はアミダさんに助けられて人生の見方が今までの私の見方から仏の見方に180度変わったことだな。

 こんな幸運はめったにないことだと私は思う。

 100億の宝くじに当たるより、毛筋一つ狂ったら出会えていなかったのだからな。奇跡のような困難至極のことがこんなつまらん人間に起こったのだからな。 

 もう、なんまんだぶつで、この人生このままつまらんままでいいんじゃねえかなと思ってもう幕引きしたい心境だ。

 そんな気分で死ぬまで暮らしたいもんだな。ナンマンダ。

そんな日が来たら嬉しいな。

 人間はまるで機関車のようだ。
 機関車は石炭を焚べて蒸気や汽笛を鳴らしながらレ―ルの上を走っている。人間も他の命を食べて叫びながら人生のレールの上をいつ終わるかもしれない終着駅へ一直線に走っている。

 時が到ればどちらも散り散りバラバラになって砂の上のお城のように流れ去り後には何も残らない。

 人生は一時預かり仏様からの貰い物の集合体。

 肉や魚を食って私が出来ている預り所。

 この小さな細胞の私の意識を離れて毎日死ぬまで励んでいる離散集合する姿が痛ましい。

 それでもそれに必死に縋りつき、泣いたり笑ったり悲しいな。

 まるで蛍の輝きのようなのに、それが永久に続くと信じて悲しいけれど必死にしがみついて泣いている。

 こんな命のやり取りを何時までも自然の道理が許すはずはない。それを何時までも許すはずがない。

 それを何時か静かに迎えることが出来る日が、何時か来たら嬉しいな。

 なんまんだぶつなんまんだ

死が教える大切なこと。

 
 生死の迷いとは生と死を分別する自力意識の心が迷いなのであって、その根本には仏の教えを疑う心があると言う意味です。その生と死を成り立たせている根本の真実が分からないと生死の迷いの中に入る事すらも知らないで生きていることになり、死を迎えてもその問題は解決しないままに死んでゆく無自覚の死という事になります。

 もともと生きる自身にも死自身にも迷いはもともとないのです。例えば念仏一つで救われるとアミダさんがいくら言ってみても、それを信じない限りそれに対し疑いがなくならない限り救われないし、苦しみが続くと言う事になります。

 ですから、もともとの真実を知れば仏の教えを疑う事も起こらないのですが、それに気が付くまでは迷っていることも知らないで人生の生と死を繰り返してゆく事になるのでしょう。
 
 心ひとつ体一つ取ってみても縁と時が到れば様々な命が寄り集まって心や体を作り、さるべき縁が来れば離れて行くという縁起の道理があって、その働きしているのが生死を包む、繋いでいるところの一如の世界、つまり様々なものを生み離れさせるいわば躍動的なゼロの世界という生死を繋いでいる救済の役割をしているものなのです。

 姿形あるものはここから生まれ、ここに帰ってくる存在としてみなここに在らしめられていると言うわけなのです。

 ここには分別される以前の一つに統一された世界があるばかりなのです。ですから生の根本は真実一如から来てそこに帰るだけの話なのですが、それを許さない我執一杯の私がいるだけなのですが、それを宗教的な自覚をもって生き、死をつつみ超えて生きて行くしかないのでしょう。

 そんな真実の世界に帰ってゆく事をこの世で知ることが生死の迷いを脱出するキッカケになっていくのだと思うのです。

 なんまんだ

念仏の水車小屋が回ってる。

 まるで仏様は水車のようだ

 地獄へ一直線に流れ去る凡夫たちの命を

 くみ上げては又くみ上げる繰り返し

 人は本来仏とは言いながら、仏様が実際にやっていることは

 自らは永遠に仏にならない菩薩のままの仏様

 一人救ってすぐまた菩薩に戻って救い上げ

 くめども、くめども尽きぬ地獄行が決まった

 人間を救う永久運動の水車

 くみ上げられた者が仏になる間も

 惜しんで救う方に回る菩薩仏の水車

 救う命がある限りグルグル回る水車小屋

 小屋の中では国土荘厳本願成就の

 お浄土がガタゴトガタゴト建設中

 素知らぬ顔でいまもなんまんだぶつなんまんだぶつと

 目の前でグルグルグルグル念仏小屋の水車が回ってる

 なんまんだ

生きているゼロという死から生まれた私たちの生なんだ。生死一如とはこれなんだ。生も死もいま耀き続けているんだよ。

 
 花の美しさが私の心に満ちてくる。

 念仏を叫ぶ。念仏の心に私の心は呼び覚まされる。

 本願に目覚める。本願が私に菩提心を起こす。

 菩提心に呼び覚まされる。浄土を目指す。
 
 浄土が私を迎えに来る。花があれば種がある

 種があれば花が咲くのではなくて、花が咲けば種がある。

「を」が「に」変わると本来の関係性が見えてくる

「を」より「に」の方が真実への意味が深まって

 きているような気がするな。

 因から果の従因向果は自然科学や常識という道理、

 従果向因は縁起の道理。

 生があるから結果の死があるのではなく、

 死というなんでも生み出す生きているゼロが

 あるから生という命たちの生滅滅已に輝きが

 あると考えた方がいいのかもしれないな。

 死も輝いているし生もいま耀いている

 死んだ人も生きている人もそのままそのまま生きている

 なんまんだぶつなんまんだ

私の遺産みんな持っていけ。

みんな娑婆に置いてゆく。

あっちへ持ってゆくもの何もない。

家族、財産、趣味道楽、名誉地位、毀誉褒貶も置いてゆく。

 ゼロから生まれ様々なご縁で今の俺ができたと知ったとて、そこに帰ってゆくばかりだが、なんと未練がましいことだろう。

 未練がましい生き方しかできないけれど、今度ばかりは仏様にさせて頂く大般涅槃。

 ナンマンダブツの大往生。

 今に成仏知らせてもらうご本願ばかりが、きっと、あの世まで持って行ける輪廻転生きっぱり断り、我輩が今度は仏になる。

 そんな確信こそがいま生きているあの世まで持って行ける最後の最後まで残る貰い物の宝物。

 人に見せたことはないけれど、言葉でいえばなんまんだぶつがその証拠。

なんまんだぶつなんまんだ

あなたの三つの命は今一生懸命輝いている。

 
 あなたの本当の名前は何ですかと問われれば、親からつけてもらった名前や仕事でつけた名前を答える。

 あなたの本当の命の名前は何ですかと問われたら私は何と答えたらいいのでしょう。

 「命に名前なんてあるんですか。それはどんな命なんですか」。肉体の命という心蔵は知っているけれど、心の命はどこにあるのか、何時もあるようで一体どこにあるのか自分で尋ねたこともないのが私たちの本音でしょう。

 精神的な自我意識や思いやりとか、良心とかというけれど、目の前で見たことは一度もないのが普通です。宗教では霊魂や業魂とか宗教心という心らしいけど、それも出会ったことも聞いたこともないのが普通です。

 ましてや真宗でいう仏より賜った信心という、信じるに心と書くからやはり仏の心となるが、しかしそれにも形がないし出会ったことなど一度もないのが普通です。

 そんなこんなで困ってしまうのですが、仮にアミダの命が永遠普遍の命という名前なら、それに気が付かないうちは限られた私の肉体と優しい命で満足するしかないのでしょう。

 だけど、限られたと言う事がしっかり分かるのは、やはり、限られない命に出会ってからのセリフなのだとするならば、そんなアミダの命を願う者になることが、やがて、心と体にある命も私の命なのですが、私の本当の命の名前はあみだでした、と言える時が来たらその命を祝う事が、ひょっとして命ある時にそれを讃嘆供養することが出来たなら、この三つの甘美な命を持っていることが不思議な事だが祝うことが出来る人間になってよかったと言える事に有難い思いをするようになると思うのです。
 
 そして、そこから見えてくる世界が今までのように薄い靄がかかったものではなく真実の世界の姿がありのままに見えてくるのではないのかと思うのです。

 なんまんだ

あの時死んでいたらよかったのにな。

 アミダ様はなぜ私達全員に悪人意識絶対一生を忘れるなという「唯除」の但し書きを残し、しかも残存煩悩を許すような残酷なことを根本的な救済としたのだろうかと考えた。

 我々ら煩悩が燃え尽きるまで、憎しみや偏った愛情の炎が燃えている中でお念仏と信心の堅固さを自ら得心し、本願の心を喧伝せよと言わんばかりではなかろうか。

 電光朝露の一生と五劫の修行は比べようもないが有難いながらも辛い願いではなかろうか。

 救われながら文句を言う筋合いはどこにもないが、あの時スッキリ、きっぱりとまるごとお浄土へ来迎させてもらったってよかったものを。

 お釈迦様が縁起の道理を覚った時に、この真理の道理は理解しがたいからこのまま涅槃に入ろうと思っていたところ、梵天勧請によって巷間に流布することになりました。それで真実の教えが私にまで届いています。

 ブッタは大きな人間であっても、小さな人間にも出来ることがあるとすれば困難な人生の中で弱い人間はそれなりにそれなりのことが出来れば、やがて「唯除」の籠から解放されるときがやがて来るのだろうと信じています。なんまんだ。

昨日の敵こそ真の友になる。

 自分自身の宗教心に目覚め主体と共に人格も変容してくれば、それまでの相手を否定することもなく、非難することもなくなってゆく。

 これは私が出来た変化は私が全責任を持って自らの運命に委ねたのだから、当然その責任も私のものとなる。

 それまでの目的は敵対する相手にあったが、それを容認し自らと同じ救いの世界に至ってほしいと願うように自らが精神的な高揚を遂げた時には、否定が肯定に変容して、ここまで私自身を純粋な世界にまで引き上げてくれた存在として観察し、尊敬の念さえ内心から自然に醸し出されてくるものなのだろう。

 即ち、慈悲と智慧の世界に煩悩のまま包まれていたとしても、そのような寛容な世界を共に歩む者として必ずいつかは理解できるようになるのである。

 そうなれば、いかに憎む相手であっても、いずれの世界においてか仏として会いまみえることが出来るのではないのかとさえ夢想できるようになってくるのではあるまいか。

 同じ仏の命である子として、同じ尊い宗教心を頂くものとして。
 なんまんだ 
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