宗教的な自覚なんて今ここに見えているのにな。

 
 もともと仏教の自然の道理は、人間の身心のありのままを如実知見することであり、その中で生きてはたらいている真実一如とともに生きる大切さを説いているものである。

 人間が育んできた理性的な道理や修道主義などは、一如の用きからすれば知的空想の産物のようなものである。

 真理がわれらに共同せよと呼びかけている真実の用きは、我らに一真実の仏道の悟りの世界の場に向かう用きを一切必要とさせず、いま、ここに、その身そのままの今のそこへの用きに、ありのままの心のままで一切を手放されて、真実一如の働きに任せてゆけば、おのずから向こうからの真実の声がここに届いていたことを知り信じられ、それがありのままのこの心と体に聞こえてくるということだけなのだと思うからなのです。

なんまんだ

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