仏がここに現れたいときに。

 なぜ阿弥陀仏は念仏となって私の口から現れ出たのか。我らの要求があったからというが。

 本来、元々人間の一つの心のかたちとして備わっていたまごころとか宗教心とか仏心といわれていたものなのではなかったのか。

 それは、それを必要とする人に対して現れて来ただけで何ら特別な一人の宗教者と言われている人々達の独占品ではなく誰にでも、どこにでもあるすべての命に生来備わっていたものではなかったのか。

 それが、いざ危急存亡の時に出現しただけで何人にも、その時が来ればその本来の命に目覚め、死さえも乗り越えて行ける清浄な意欲の力となっていたのではないのかと思うのです。

 本来、人間や命あるものの根底に秘められていた人間のこの真の命に目覚めること、覚る事、信心を獲ることに現世の死を超えた働きがあることを見ても、来世への真実の生の世界につながる生をここで得ることによって、それは理解できることになるのではないかと思うのです。

 なんまんだ

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