たまたまほとけさま

 
なぜ無量寿に帰命しなければならないのか。

 なぜ私はそうしたのか。親鸞は宗教的な課題にぶつかって結論として真の主体の回復手段として帰命せざるを得なかったのだ。

 私の場合は身近な問題の解決が自己の能力の限界を超えていたので無量寿に頼らざるをえなかっただけだ。

 私はわざわざ真理なんかを求めてなんかいなかった。下世話な課題を解決できればなんでもよかったが結論として、そういう心的環境と時代的な環境状況が身近な仏縁として偶々あったに過ぎない。

 その結果、これも偶々だが親鸞の求めた真理の結論の場で出会っただけなのだ。

 それはそれとして、それでは出会った無量寿のはたらきと、その世界の環境はどのようなものなのだろうか。

 その世界に入ってみれば誰でもわかる事だが、無量寿の本願が公言していたように、そこはすべての命あるものの命の純粋性と平等性に満ち溢れた世界であり、その活動する範囲は時空を超越した活動領域になっていたのである。

 それであるから私ごときものでもその時空の中にすでに泳がされていたから、自己が脱落した途端にその命の大地にふれて、無量寿の世界に生まれ得たのである。

 いつの時代でもこの普遍的な命の平等な精神世界ともいうべき無量寿環境はそこに生まれたものにはすでに完全に救われる条件を備えていたのである。

なんまんだ

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