悪人成仏

 親鸞の言う悪人とは、仏に救われてもなお、その無限の愛情を嫌って、限りある人間愛にしがみつこうとする私を指すのである。
 世にいう、親孝行ができる善人とか、裁判で量刑が決められるような相対的な悪人ではない。
 親鸞のいう善人は自らの相対的な努力意識で仏になろうとする人のことで、弥陀仏が私を仏にするという意思よりも自らの努力意識を大切にしようとする私の善人意識を言うのだ。
 この自力意識は地獄まで持っていくしかないから、救われないままに、救うという本願におまかせするしかないものだ。
 悪人と言われる私の心の構造が一生抜けないままに救われる。私の心に合わせたむじゅんしてくれてまで、本願が悲しみでゆがんだままで救うというねその悲しき本願がなければ人間はどこまでも救われぬ心の構造を持って動けないままだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

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