不即不離

 死後の世界を正しく知っていたら、今の生の世界は心から安心して生きやすくなるのだろう。

といえばブッダは死後の世界は云々という。

 ならば、生の世界を完璧に知ったなら死後の世界に意味がないと果たして言えるのか。

 死後の世界に意味がないなら生も同じ次元なのではないのか。

 最初から生も死もという概念そのものにも意味がないものなのかもしれないが果たして、そんな意味のない生も死も生きる意味がないのではないのか。

 生の中に死もあるなら生の中に死もあるはずだ。

 肉体の死と心の死は違う世界のものだ。

 ブッダは肉体の死後を言ったのであって心の死後を言ったのではあるまい。

 心と体は不即不離だがブッダの言葉の体の死後の言葉に重きを置きすぎているのではないのか。

 心は一貫性を持っているようで、そうではないし、親鸞の愚禿鈔「前念命終・後念即生」の念が人間の一つの心ならその心の変遷である自力意識が他力意識の前に本願念仏に帰命という意識の終わりを迎えるという事だ。完全な自力意識の死滅ではなく、自力意識と他力意識の主体の変換が行われたという事だ。

 そして、摂取不捨意識に古い意識心が新しい自己の主体を得て浄土意識を持ちながら娑婆に往生意識をもちつつ再生できたという事だ。

 本来の人間意識が全体現したことを意味しているのだ。

 であるから、人間の心の本質が心を超え包む仏意識に目覚めれば仏の新しい真実の意識が認識され真の自己自身に生まれ変わる、というよりも本来の本源的な自己に目覚めることができるので、ここでいうブッダは死後を説かなかったではなく心の死後の世界の宗教心に覚醒した、浄土意識の世界死後の世界は説いたというべきであろう。
なんまんだ。

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