ここに仏あり。

 どんな小さなことにも真理は虚偽の皮をかぶりつつその中から表されていると思うのです。

 虚偽と真実は相反するのではなく真実の中の方便としての虚偽ではないのかと思うのです。玉石混淆として提示され、その中から慧眼を得て見極めた時に与えられるものなのでしょう。

 存在と非存在においても真理の全てつつまれていると思うからだ。時代によって隠れたり現れたりはしないからだ。

 多くの場合にそれを見つけられずに真理の一片を捕まえそれをすべてとしてしまうのではなく、虚偽に出会いそれを乗り越えていたるところに虚偽の役割が改めて意義のあるものであったとなるのでしょう。

 すべて真理であっても我らが真理を虚偽であるとみる意識を終生持続せねばならぬ悲しい存在ならば、全ては真実の仏の顕現であるという認知は無限に不可能になるのかもしれません。

なんまんだ。

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