一人称の死を超え生きる。
フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは三人称の死。二人称の死。一人称の死があるという。赤の他人と知り合いと自分だ。
一人称の死だけは死後の認識ができないという。肉体の死後の自覚はないというが、生と死を一つ一つの命の塊と考えないで、仏教でいう縁生存在の寄り集まっては離れていくものとしてとらえれば、最初から実体的な生死はないものであり、その都度その都度に生々流転した肉体として生存しているし、精神でさえも同様に働いていくものなのだろう。
そして、その中で細胞レベルで生と死を交互に繰り返しながら今を生きているということが今知ることができる生というものになるらしい。そこに自我意識があるから、その分別する心で生きているとか死んでいると分けるのだろう。
私たちの体も川の流れのごとくに毎日が同じように見えても日々刻々様々なもので体は成り立っては消えている。そこでは、実体的な体や心はどこにも存在しないことになる。そんな中で、自我意識が一時停止して宗教意識が興りその働きを深く自覚する時がある。
自我意識がいったん終われば即ち自然の浄土が自我意識の底に再認識される、つまり意識滋養に生まれるといっている。そこでは自我意識が一時的に仮死自様態になり、宗教心という全的意識が全身を凌駕する時があるというのだ。それを親鸞は「前念命終後念即生」といいい、そこに浄土意識なるものが別世界として現在するようになるというのだ。そこには自我意識が意識する生も死もなくて、ただ単に今ここにある自分が、絶対なる仏や神の御前に正座していることが心地よくて懺悔の命を尊ぶ世界が意識上に常に現れるようになるのだ。
そうなれば、そこには永遠無限の世界意識だけが我と仏の会う共感意識として意識されるだけの絶対無限の満足世界に包まれるようになる。
ここまでくれば、こんな世界が与えられたら、誰でも一人称の生死を超えた世界が体験できることになるのではなかろうか。
これが一人称の死を自覚することであり、仏教でいう生死の迷いを超える道であり、生や死を諦める道元禅師や親鸞の念仏の悟りの道にも通ずる実存の自覚を得歌ということになるのではないのかと思うのです。
なんまんだ
一人称の死だけは死後の認識ができないという。肉体の死後の自覚はないというが、生と死を一つ一つの命の塊と考えないで、仏教でいう縁生存在の寄り集まっては離れていくものとしてとらえれば、最初から実体的な生死はないものであり、その都度その都度に生々流転した肉体として生存しているし、精神でさえも同様に働いていくものなのだろう。
そして、その中で細胞レベルで生と死を交互に繰り返しながら今を生きているということが今知ることができる生というものになるらしい。そこに自我意識があるから、その分別する心で生きているとか死んでいると分けるのだろう。
私たちの体も川の流れのごとくに毎日が同じように見えても日々刻々様々なもので体は成り立っては消えている。そこでは、実体的な体や心はどこにも存在しないことになる。そんな中で、自我意識が一時停止して宗教意識が興りその働きを深く自覚する時がある。
自我意識がいったん終われば即ち自然の浄土が自我意識の底に再認識される、つまり意識滋養に生まれるといっている。そこでは自我意識が一時的に仮死自様態になり、宗教心という全的意識が全身を凌駕する時があるというのだ。それを親鸞は「前念命終後念即生」といいい、そこに浄土意識なるものが別世界として現在するようになるというのだ。そこには自我意識が意識する生も死もなくて、ただ単に今ここにある自分が、絶対なる仏や神の御前に正座していることが心地よくて懺悔の命を尊ぶ世界が意識上に常に現れるようになるのだ。
そうなれば、そこには永遠無限の世界意識だけが我と仏の会う共感意識として意識されるだけの絶対無限の満足世界に包まれるようになる。
ここまでくれば、こんな世界が与えられたら、誰でも一人称の生死を超えた世界が体験できることになるのではなかろうか。
これが一人称の死を自覚することであり、仏教でいう生死の迷いを超える道であり、生や死を諦める道元禅師や親鸞の念仏の悟りの道にも通ずる実存の自覚を得歌ということになるのではないのかと思うのです。
なんまんだ
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