パーフェクトディズ。

 
 映画「パーフェクトディズ」は宗教的な確信を得て、市井の日々の生活の中から平凡な言葉でその心を吐露し、その宗教意識の高揚を静逸に生きている現代版妙好人の物語である。
 今を真実に基づいて深く生きているという意味を持った現代の宗教人の何気ない日常を描いた「日々是好日」の映画である。

 今に絶対的な安心感の心境を得ていないと日々の安らぎもないし、自我意識から日々揺れ動く心もありながら、人々と自身の心の振動が不安や恐怖も伴いながら、心の深みに神や仏に出会ったことを根拠に、それらを超えて行く日常の精神的な揺れと安定を描いている物語りである。

 トイレとは人間の自我意識と宗教意識が殺生しなければならなかった命達の亡骸への立ち合いの場である。その最後の立会と見送りがトイレ清掃人の仕事となっているのだろう。それは神や仏の使徒の仕事である。

トイレ掃除夫に身をやつして生きている姿は真摯な僧侶の姿は命の神の代理人でもある。そのエンゼルの平凡な生活と、その救われた者の言葉に救われてゆく人々との対話でもある。

 彼は常に天にまします神や仏からのメッセージを目に見える光から、「今日も生きていていいよ」の言葉を身に浴びて暖かい光から毎日確信して微笑んでいるのである。その光が見えなくなった時こそ彼の心と体全部の全身そのみ光に包まれることを知っているからである。

 また「今度」と「今」も「違う時間」も、今にあって今を超えている永遠の今であって、それの連続の次の日、今度は誰も何が起こるのか、神のみぞ知る今度になる世界なのであろう。

 誰でもが毎日過ごしているごく平凡にみえる日常生活の中に
ごくありふれたようにみえる精神生活を描いているので、なにがと思うのだが、その中には宗教というもので測らなければ何もわからないものがちりばめられているように思うのです。

 平山とはヴィム・ヴェンダース監督が小津安二郎監督主演の笠智衆の役名にインスパイヤ―されたものらしいが「平山」平凡な山と書くが、この平凡とは非凡ではないが非凡を超えた神や仏の使徒になった人に与えられた平凡を意味するのだろう。親鸞は罪悪深重の凡夫といい、法然は愚痴の法然坊と。

 平山が毎朝お天道様に微笑んでいる場面がある。平山はヴィム・ヴェンダース監督の話だと善修業した歌手レナード・コーエンのイメージだと言う。

 朝日に挨拶しているのではなく朝日から平山が挨拶され微笑まれているのである。神や仏様との平山の毎朝のご挨拶なのである。大事な毎日のお互いの確認事項なのである。

 恐れながら、私も食事の前にお天道様をあみだ様の光だと思って飯を食っているので、そこだけは同じだなと思った。 
「み光のもと、われ今幸いに・・・」見えないあみだ様の光をこの愚かな身に直接浴びているように。

 日々、神や仏の存在を直に確認し感謝して生きることは存外どこにでも誰にでも日常生活の上でごく平凡に表すことが出来る日常事になって、やがて誰の目にも見えないものになってゆくものなのかもしれません。

 この世には幸せになった人とならない人がいる。なりかけの人は一人もいない。幸か不幸かの二択しかない。その幸せの基準は幸せになった人達だ。

なんまんだ

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