無量寿光の光はなぜ見えぬ!

 この世には見える光と見えない光があるそうだ。お慈悲は目には見えないけれど、「お慈悲は有難い」と言えば、仏ごころに目覚めた人同士なら、有難いという人に共感し「その通り」と言葉になって出てくるものだろう。
 その言葉から見えない無量光の光が放たれて、無量の智慧がはたらき出して、お互いお慈悲と智慧を感じあう。
 無量光の智慧の光が届いて、その人の宗教心と言う仏ごころか信心に感応反応して言葉となって出て御座る。
 無量の光を通さぬときは、宗教心や信心がまだ開発されてないときで、その言葉を分析解析分別する自我意識の判断でお答えするから、深い味わいが無くて、通り一遍の返事しか出来ません。今まで既知の知識が語った先師口伝の言葉を自分の言葉のように他人事として語るしか方法はありません。「そうですね」などと妙に頷いたり、心にもないことを感慨深かそうに言うしかありません。心に真実の無量光に触れていない隔靴掻痒感さえ忘れて「有難い」などと答えるしかないのです。
 お慈悲が見えるとは、宗教心や信心と言う仏の命によって起こっている、その人の宗教心から出る言葉によって、その人を超えた無量寿の光の用が言葉と言うものになって可視化された時に初めてその姿を現すものなのでしょう。
 なむあみだぶつはその意味で目には見えない無量寿無量光の智慧と慈悲の光に包まれた無限の光に包まれた仏の命を具現化した言葉なのだと思います。もし光が見えたなら私どもは、それを現金化して商売にするから、見えない用に阿弥陀様がして御座る。最初から有難いご配慮忝くも、勿体ないばかりでございます。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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