小さなアミダ様

 大きな柿を六等分にしたら小さくなった。
仏様も文献読んで資料を調べて、古今の諸講師の所説を読んで書評まで切り刻んで理解する。こっちの断面にはこんな理解が書いてある。あっちにはそんな意見もあったのか。そんなこんなで、最初、見た仏典原典の言葉が霞んでくるのはどうした事か。
理解が深まり真理に充分接近したつものだけれど、それ以上に私の個人的な問いの疑問が深まることなく、アー分かった分かったで日が暮れる。
 最初の立派なことが勉強すればするほど、研究すればするほど原典がひどく見えてきてダメになる。
なぜだろう。理解し分析して研究するほどアミダ様のことがより深く理解でき信じられるようになれるはずなのに、まったく逆にこんなものか、とだんだん小さく見えてくるのはどうしたことなのか。
まるごと、そのまま見た時の感動のまま受け取れる感じが、立派だなと思ったまんまでいてほしかった。切り刻むほどアミダ様が小さく見えてくるのはなぜなんだ。私の方は丸ごとそのまま信じられ丸ごと愛され敬せられていたのにな。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

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