十八願文について

 助ける者も助けない者もいると言ったり
願文が矛盾している。法蔵はどうしてそんな矛盾した言葉を吐いたのか。
 なぜ絶対許されないものがかくも安易に許され、救われていくのか。
 この願文だけでは理解できないが。
 但し親鸞は誹謗の咎を知らせんがためとあるが以下
「謗法・闡提、回心すればみな往く」(信巻 P.303)
【左訓】「法をそしる仏のたねをやくものも、そのこころをひるがへして本願をたのめば、みな往生するなり」 (口伝鈔 P.909)

「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)
 「謗法・闡提、回心すればみな往く」(信巻訓) (御文章 P.1171)
 されば、本願念仏によって回心したものでなければこの矛盾の本質を信じ認識できないことになる。唯除の機であることは救われたら救いの中に納められはするが、それが消えないままに浄土往生が叶う大般涅槃往生が可能であるという事になる。煩悩を持ったままの救いが本願によって証明されたことになる。煩悩本能を持っている完全な救いへの途中を正定聚不退転とアミダが吾らに下駄を預けたのである。
 アミダが吾らの毒を飲んで我らを救ったのである。
 この助からぬものが助からぬままに助かってゆくことこそが真実のアミダの命の課題であり、全ての人が救われる道であったのである。
なんまんだぶつ
なんまんだ

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