昨日の敵こそ真の友になる。

 自分自身の宗教心に目覚め主体と共に人格も変容してくれば、それまでの相手を否定することもなく、非難することもなくなってゆく。

 これは私が出来た変化は私が全責任を持って自らの運命に委ねたのだから、当然その責任も私のものとなる。

 それまでの目的は敵対する相手にあったが、それを容認し自らと同じ救いの世界に至ってほしいと願うように自らが精神的な高揚を遂げた時には、否定が肯定に変容して、ここまで私自身を純粋な世界にまで引き上げてくれた存在として観察し、尊敬の念さえ内心から自然に醸し出されてくるものなのだろう。

 即ち、慈悲と智慧の世界に煩悩のまま包まれていたとしても、そのような寛容な世界を共に歩む者として必ずいつかは理解できるようになるのである。

 そうなれば、いかに憎む相手であっても、いずれの世界においてか仏として会いまみえることが出来るのではないのかとさえ夢想できるようになってくるのではあるまいか。

 同じ仏の命である子として、同じ尊い宗教心を頂くものとして。
 なんまんだ 

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