アミダを喰らうもの

 アミダを食らう者

 キリスト教会ではキリストの血という葡萄酒を飲み、肉体のパンを食べるそうだ。

 宗教の「宗」の解字では屋根の下で神に生贄を捧げ、その血が滴っている姿がその成り立ちのようだ。

 浄土教のアミダ様をその例に譬えると、あみだ様が我々を救うために修行していた厳しい法蔵菩薩の時代に流した血の泪であり、その体は本願となって我らを救うアミダ様の身体なのではないのか。

 念仏をするという行為はそれ自体あみだ様の身体本願をわが身に食し、その口が血塗られていると言う事になりはしないのかと思うのです。

 法蔵菩薩のご苦労を思えば、たかが念仏一声称える念仏の声の中にも悲しくも申し訳ない忝いと言う思いが、当然そこに沁み出てくるのではないのではないのかと思うのです。

 それによってこそ、我らもやがてあみだになることが出来るのでしょうし、古代人がマンモスの肉を食べれば英雄のごとき様相を呈したのではないのか。

 現代であれば大きな牛の肉を食べると元気が出るとか、大谷選手のグッズを手に入れて元気になるなら、握手したならもっと元気になるかもしれないし、古代の戦争で勇猛な敵の心臓や肉を食べれば勇猛な敵の特別な力を得る言う話もあるように、信心を獲ると言う事はアミダから救済と同時に特別な智慧と慈悲という力を我らが与えられていくと言う事になるのである。

 つまり、アミダとは我らが食う命の全てに籠っているのではないのか。

 我が命をむさぼってアミダの命になってすべての人を救う手伝いをしてくれまいか。という願いが籠った食べ物である。

 我らは美味いか高いか安いかで食うが、アミダの血と肉体を食うのだとなれば、そこには念仏一つにもアミダの力強い悲しみと痛みが籠った念仏となって我らの口から出る念仏一つ一つにも籠っているのであると私は思っている。

 それでもその命がけの御恩を忘れ果てて生きている私がここにいるのである。
 毎日、血を滴らせながら、口に真っ赤な血をこびり付け、我らはアミダを食らう者となったのである。

 念仏するものに祝福あれ。

 なんまんだ

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