信仰と覚りと信心は同じ一つの宗教心。

一人の力で信心を獲たり覚ったりする人は誰一人としていない。「かれあればこれあり、これあればかれあり」の相互依存関係の因縁道理の因縁所生のはたらきが覚りの目覚める心を促して自覚に至らしめるものだと思うからある。

そうでなければ自然発生的にすべての人間がブッタとなれるはずであるからだ。

宗教心という信心の世界はそれ自体純粋な永遠世界と結びついているものなので、人間の心的環境を優先しているわけではない。

ブッダでさえ宗教的な因縁の道理が諸仏諸菩薩のはたらきに見守られながら悟りを発現し真理の道理に目覚めたのであって、初めには常に宗教心や悟りの心の方が優先しての自我意識が後で、それに気が付くと言う段取りになっているようなのである。

 信心も悟りも今日では通途の如く等質のものとされて久しいが、目覚めた世界はブッダでも親鸞でも同じという意識は親鸞もすでに持っていたようである。

 ただそれを深め理解し表現する能力は個々別々だ。

なんまんだ

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