宗教心

 宗教心を得ることはアミダさんの苦労を我が事ように深く想像し思い出すことなんだ。
 生きている時に信心得れば、やがて私のご主人様になるけれど、その後、その後は、やがて私もアミダ様にならせて頂くことになる。
 その変わらぬ無量無限の命の片割れの主体になることは、その命がいま私に生きているという事だ。今、アミダ様が法蔵菩薩になり下がり、成り上がり、生きた私の主体となっているという事はアミダとなって私を救うという事は、今の私が未来の仏に成ることは私が法蔵菩薩の時代に修行していたことを自らの過去を自らの今の記憶力を動員して全部おもいだし、それが私の過去の姿と知る事だ。
 そこまでの想像力妄想力を働かせたら今に信心もわがことのように考えられるのでしょう。
 他人事ではない自分自身の深い願いに目が覚めてゆく事なんだから。信心は私が今まで解決してこなかった私自身の問題なんだと気が付けば、自分自身の問題仲だと思うのでしょう。

name
email
url
comment

NEW ENTRIES
念仏の矢が当たらない。(05.16)
長生不死の法を生きてみる。(05.15)
親鸞かく戦ぬ。(05.13)
ブッダと親鸞の常備薬。(05.12)
大谷翔平を信ずる心。(05.11)
今日の夢想庵。(05.11)
平和時代(05.10)
それが真っ逆さまに地獄に落ちている顔だ。(05.10)
闇は光の友達だ。いつも一緒で仲がいい。(05.07)
心は浄土空間さえも駆け巡る。(05.04)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS