知ることと信じること

 脳科学者が宗教心を、無意識の働きを、無我を、阿頼耶識などを説明しても、認識できるものと知っていると言っても、それを信じている事とは別世界。実際に知っていると言っても信じて実際の生活の中で真実の自己の主体になって、言葉にまでなって生きていなければ意味がない。
 言葉はものの本質まで指し示す羅針盤や道案内だ。だけど、いくら立派な山の看板があって、実際に登ってみなければ山頂からの景色は見えないように。本当に宗教の主体のはたらきを心に浴びて日々信じている人の言葉は自身ばかりではなくて、それを聞く人の心の宗教心にまで届いて、きっと、きっと、いつかはその人自身も、その道を歩み出すほどの力を、真の主体を確保するほどの、その純粋なはたらきは与えてくるに違いない。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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